シエラ〈第18話〉
Je m'appelle
「チョー噛みまくりじゃん。ウケる」
「でも、かわいーい」
え?
「美形だよね。目の保養、目の保養」
ビケー?
「おい、なに固まってんだよ。せっかく褒めていただいたんだから、何とか言えや。こいつね、さっきまでアニメオタクだったんだぜ。たった三時間で、アホみたいに変身して来やがった。なあ」
「あ、はい」
「ええっ。アニメオタクだったの? 見たかったなあ。その時の写真、ないのかしら?」
「写真かあ。写真撮るのは忘れてたなあ。なにしろこんなに変わるとは思ってなかったからな。油断したぜ」
「写真ならここにありますが」
免許証の写真の存在を思い出し、財布から取り出して見せた。五年以上無事故無違反なのでゴールドである。
「えっ。どれどれ見せて見せて。うわ、ホントだ。だっさ。ホントに同一人物ですか?」
「はい。だいたい」
「ねぇ、ウチにも見せてよぉ。わ、衝撃映像。こういう人、アキバに沢山いるよねぇ。整形しましたかぁ?」
「いいえ。横断歩道くらい白く塗られましたけれど」
そう言えば、正体不明の薬剤を大量に摺り込まれたためだろうか、先程から顔が痒くてかなわない。意識したら痒さの波が襲ってきた。
「まじウケる。ねえジオン、このお店ムヒとか置いてないの? レオンくん顔面痒いみたいよ」
「ねえよ、そんなもん。おまえ天然で笑い取んなよ、ずりぃな」
「レオンくんの天然ウケるんですけどぉ」
やはり「ウケる」は、シエラの口から聞きたい言葉である。
それはそうと、先程から私は、一般の女性と普通に会話をしているではないか。生身の人間三人に囲まれ、そのいずれからもバリアを張られていない。
「ねえジオン。私、レオンくんの入店をお祝いしてあげたいんだけど。モエピン入れてもらっていいかしら」
「モエピン、って何ですか?」
「バカ、高級シャンパンだよ。お礼を申し上げろ。ありゃーたっす」
ジオンは昭和の父親が悪ガキに対してするように、私の頭を手で押さえて無理やりお辞儀をさせる。このような扱いを受けたことは、過去の人生に一度もなかったが、さほど不愉快でもない。
「ありがとうございます」
「いいえ。その代わり、私のこと覚えてね。私、アキラっていうのよ」
「アキラさん、ですか。一生忘れません」
記憶力には、絶対の自信がある。人の名前であれ、岩石の名前であれ、一度見たり聞いたりしたら、まず忘れない。
中学生の時は、生徒が皆、名前を黒々と書いた白い布を体操服の前後に縫い付けて校内を歩いていたため、覚えたくもないのに全校生徒の名前を一人残らず覚えてしまった。そのせいで、こちらは向こうを知っているのに、向こうがこちらを知らないという地味なエピソードが、中学卒業後、無数に生まれたのだ。
「え。ほのお? 知らないよ、そんな変な名前のヤツ」
そのようなセリフを人づてに聞いて、何度苦い思いをしたことか。
「うれしい。一生忘れません、なんて。私、ちょっとドキッとしちゃった」
「この野郎、カッコいいじゃねえか。アイドルオタクのくせに」
「じゃあ、ウチはジオンくんに、初めましてのボトル入れちゃおっかなぁ」
「えっ、まじっスか。ありゃーたっす」
「ウチはミオっていいまぁす。イケメン二人に覚えてもらえたら最高でぇす」
「ミオちゃん。う~ん、素敵な名前だ。胸に刻んでおくぜ」
「ヤバぁい。ハスキーボイスに鼓膜が犯されてるみたぁい」
「でしょ。だから私、ジオンの声を目覚ましボイスに使ってるのよ」
「オッケー、サンキュー、ベイベー。二人してこいつにキャーキャー言ってるから、正直ちょっと妬いてたんだぜ」
「ジオン器小っさ」
「あのう、失礼ですが、殴らせていただいていいスか」
「でもぉ、ジオンくんマジカッコいい。レオンくんは可愛いし。『ジオン&レオン』でユニット組めばぁ」
「おお、いいかもしんねえな。俺にないものをこいつは持ってそうだからな」
そう言ってジオンは、筋肉質の腕で私の肩を抱き寄せて揺する。蘭丸といい、ジオンといい、ホストという人種は、距離の取り方が普通の人間とはまるで違う。その近過ぎる違和感たるや胃壁に鳥肌の立つレベルなのだが、バリアを張られないことの愉悦がそれを上回る。
「ねえアキラ、ウチさぁ、お酒の種類全然分かんないから、何か適当に決めてよぉ」
「ブランデーでいい?」
「わかんないけど、それでいい」
「じゃあ、ジオン、コルドンブルー入れてもらえるかしら。ミオからジオンへの初めましての御挨拶ということで」
「ありゃーたっす。よっしゃー、今夜は飲むぜ。覚悟はいいか、レオン」
「かしこま…ラジャー」
「なにそれ? ウケるぅ」
「てめえ、先輩をナメてんのか、コラ」
「かしこまラジャー。初めて聞いた。草」
かしこまりました、と言おうとした時、突如「硬てぇんだよな、ったく」という止まれの声が頭をよぎり、柔らかい方向に修正を試みたのだが着地を失敗した、というのが事の顛末である。
何はともあれウケたようである。
その日のその後の記憶は、まるでない。
(次回につづく)