あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第20話〉

                                 Je m'appelle

 帰り道、スマホが胸のポケットで振動した。

 シエラからの三週間ぶりのLINEであった。

[今日、逢えませんか?]

 覚えのある文面に、国際展示場の屋上から見た夜景を思い出す。あの日、あの夜景を、初めて美しいと思った。そして新宿東口交番前での待ち合わせ。つい顔の筋肉が緩む。

 しかし、口の隙間から漏れた吐息と交差して、線香の匂いが鼻の奥によみがえってきた。

 唾を呑み込み、スマホのキーボードと向かい合う。

[ごめん。今日は無理です。それより、シエちゃんに一つ聞きたいことがあります] と打ったが、全文削除した。

 結局、返信はしなかった。

 

 ホストの一日は掃除から始まる。テーブル、ソファ、床から始まって、女子トイレの便座の裏まで徹底的に磨き上げる。時々ネズミが小学生のピンポンダッシュのごとくフロアを斜めに駆け抜けるのには驚いた。先輩ホストは誰一人驚かない。どうやら日常の光景らしい。賢いもので、客が一人でもいると、彼らは決して顔を出さないのだそうだ。下等動物だからといって侮れない。意外にも、人間どもの動きを鷹揚に俯瞰しているのかもしれない。

 小学四年生の頃、毎日学校帰りに、一人でドブネズミを追跡していたことがある。発端は、ある時ふと「通学路って一体何だろう」という素朴な疑問を抱いたことである。その謎を追究するために、帰り道、実験的に通学路ではない道を通ってみた。十歳の少年にとって、これは極めて刺激的な体験であった。知らない道を歩いているうちに、学校からも家からも遥かに離れた知らない町に迷い込んでしまった恐怖が、決して不快なものではなかった。そこから『通学路を絶対に通らないプロジェクト』が本格的に始動した。やがて私は、単に知らない道を探究するだけでは満たされなくなって、ある日、たまたまドブネズミを見かけた時に、「奴を捕らえるべし」という天啓を受けたような気がして、かの小型プレデターを生け捕りにするというミッションを、自らに課したのである。

 それからの毎日は、ドブネズミとの知恵比べであった。

 ある時は、名前の通りドブに逃げ込んだ敵の背中に、ホースで水を浴びせかけ、逃げる敵を、その行く先に予めセットしておいた虫取り網で捕獲するという作戦を思いついた。そして、早速作戦を実行に移したのだが、放水攻撃をしているさなかに、水道及びホースの持ち主であると名乗る見たこともないおばさんから、こっぴどく叱られて、勝負はネズミの勝ちとなった。

 またある時は、『新案ねずみとり器』という装置をふと思い付き、丸二日間食事もそっちのけで製作に没頭した。いざ出来上がってみると、その完成度があまりに高かったため欲が出て、使用する前に夏休みの自由研究の作品としてつい出品してしまった。すると、あろうことか「市長賞」を取って、市役所のロビーに展示されるという予期せぬ展開となった。結局、新兵器は出動する機会を奪われてしまった。つまりこの勝負もネズミの勝ちであった。

 振り返れば、ネズミの全勝、私の全敗で戦いの歴史は幕を閉じた。

 このようにドブネズミと私は、深い縁で結ばれているのだ。あれから十七年経った今、かつてのライバルとの再会を果たして、しみじみと郷愁に浸っていたところ、ぼやぼやするなとジオンに叱られた。

 開店準備が済むと、なぜか腕相撲大会が始まった。私にとって、人とのコミュニケーションの次に苦手なのが体を動かすことなので、早々にトイレへと避難しようとしたところ、蘭丸に見つかって、無理やりトーナメントにエントリーさせられてしまった。当然一秒もかからず一回戦負けをして、興味もないまま大会の行く末を見守る羽目となった。ジオンの優勝を皆で馬鹿面して見届けると、その茶番もようやく幕引きとなった。

 そうして、何のための時間と体力の消費だったのか誰にも教えてもらえぬまま、開店時刻の十八時を迎えた。

 最初の客は、同窓会の二次会のノリで来た、四十代の主婦三人組だった。今日もジオンの見習いである。客はビールとレモンサワーを飲んで、三〇分で帰っていった。

 

「おいこらレオン、おまえちょっと来いや」

 ジオンに呼ばれ、控室に入った。

「はい。何でしょうか」

 ジオンは破けたソファに座り、煙草に火をつけて私をひと睨みした後、煙と共に言葉を吐き出した。

「何でしょうかじゃねえ、この馬鹿。てめえ、ちっとは芝居をしろや」

「芝居、とおっしゃいますと?」

「おまえ、さっきの客が、気に食わなかったんだろ」

「え、そんなこと…」

「ないと言えるか」

「い、いいえ。正直なところ、あまり好きなタイプの人間では、ありませんでした。分かってしまいましたか?」

「馬鹿野郎、分かり易過ぎるんだよ。客もそれを察したから、あっという間に帰っちまったんじゃねえか」

「はい、申し訳、ありませんでした」

「あの客は、もう二度と来ねえぞ」

「……すみませんでした」

「いいか、新人とはいえ、てめえはもうプロなんだ。プロならまず客を喜ばせることに専念しろ」

「はい」

「それからおまえ、この間アキラとミオの相手をした時、それなりにウケたよな」

「はい、お蔭さまで」

「あれは目をつぶって振ったバットに、たまたまボールが当たったようなもんだ。あんなものはプロの仕事じゃあねえ」

「はい」

「客は一人ひとり違うんだ。客が変われば、それに合わせて俺たちも変わらなきゃならねえ」

「はい、努力します。しかし、そう上手く変われるかどうか……」

「分かってねえな、このウスラトンカチが。差し詰めてめえは、本当の自分だとか、ありのままの自分みてえなもんがあると思ってやがるんだろう」

「ええ、まあ……」

「それが間違いの大元なんだよ」

「そうなんですか?」

「そうだよ。そんなもんは端っからねえんだ。てめえが本当の自分だと思ってるのは、赤ん坊のおしゃぶりみてえなもんだ。捨てちまえ、そんな一文の役にも立たねえもんは」

「……はい」

「納得してねえな、この野郎」

「あ、はい、すみません」

「分かってねえなら、はいって言うな、このイカ頭」

「すみません」

「たとえばだな、てめえが死んだとするよな」

「は、はい」

「その後、残った連中は、てめえという人間のことを、どう語ると思う?」

「うーん。暗い奴だったなぁとか、よく分からない奴だったなぁとか、とっつきにくい奴だったなぁとか、言うでしょうね」

「だろうな。てめえはそれを認めたくねえんだろ?」

「はい、まあ……」

「それを打ち消すために、自分にしか分からねえ本当の自分とかいう逃げ場所を用意してるんじゃあねえのか」

「……そうかも、しれません」

「だろう。いいか。生まれ変わりてえなら、他の奴の言うことを、とりあえずは認めろ。ダサい奴、キモい奴、それからあと何だっけ」

「とっつきにくい奴です」

「ああそうか、それだ。とりあえずは、それが今のてめえなんだ。そいつを認めろ。それが初めの一歩だ」

「きつい一歩ですね」

「そうかも知んねえ。だが、その先に楽園があるとしたらどうだ」

「はい、ちょっと気になります」

「だろう。いいか、よく聞け。薄気味悪い奴、死んだ方がいい奴、あと何だっけ」

「とっつきにくい奴です」

「ああ、そうだ、それだ。そういう周りの見方ってえのは、一体何が生み出したんだ?」

「ええと、少し考えてみてもよろしいでしょうか」

「おお、考えろ」

 ジオンは、頬をへこませて煙草を一吸いした後、煙を長く吐き出した。

「私の行動や、発言でしょうか」

「そうだよ。よく分かったな。だとすると、てめえに対する人の見方を変えるには、どうしたらいい」

 ジオンの座るソファに開いた穴から、スポンジがはみ出ている。

 人の行動。

 ソファの穴。

 自分の行動。

 とっつきにくい奴、という見られ方。

 乱暴に座るから、ソファに穴が開く。

 ソファの穴が開かないようにするには、座り方を変えればよい。

 とっつきにくい奴と思われるのは、自分の行動や発言のせい。

 その見え方を変えるには……

「……あ。たぶん、分かりました」

「な。簡単な話だろう?」

「はい、驚くくらい。なんでこんなことに、二十七年間も気付かなかったんでしょう」

「二十七で気付きゃあ早え方だよ。それに、てめえ、副社長に嘘が得意だって言ってたよな」

「はい、まあ」

「それを使えってんだよ。その都度必要とされてる自分を演じる、あるいは自分がこうありたいと思ってる自分を演じる、それこそが副社長の言ってた嘘なんだ。元々本当の自分なんてのは、ただの幻なんだから、実は嘘ってわけでもねえんだけどな。とにかくそんな大層なもんがあると思うな。自分なんてのは使い捨てでいいんだ」

 シエラの言葉を思い出した。

 ―― 人間なんて

 瞬間ごとに様子が変わる

 噴水みたいなものだと思います

 

 その時、控室のドアが開いて、お客さんからもらった猫耳カチューシャをつけた蘭丸が顔をのぞかせた。

「ジオンさん、レオンさん、お客さんですニャン。お願いしますニャゴ」

「おお、今行くから、ちょっとつないどいてくれ」

「ニャオ~ン」と言いながら、蘭丸がフロアに消えて行った。

 ジオンは煙草の火をを揉み消した。

「今の見ただろ」

「はい」

「あいつは半分天然だが、要するにああいうことだ」

「分かりました」

「よし。行くぜ、レオン。こっからがてめえの本当の勝負だ。てめえの本気の嘘を俺に見せてみろ」

「はい、分かりました」

 と次の瞬間、熱いものが頬に飛んで来て、視界が歪んだ。

 ジオンから横ビンタを食らったのだと分かるまでに、半呼吸を要した。

「な、何を……」

「今の返事は何だ、馬鹿。いつものてめえと何も変わらねえじゃねえか。ここで演じられなくて、客の前で演じられるか、この腐れコンニャクが。何でもいいから、いつものてめえとは違うキャラクターを、今ここで作ってみろ。もう一回いくぜ」

「は、はい」

「いいか、レオン。こっからがてめえのガチの勝負だ。てめえの本気の嘘を、この俺に見せてみやがれ」

 放たれた言葉と共に、二発目のビンタが頬に飛んできた。その時、自分の中で何かが弾けた。

「おお。やってやるよ。やってやろうじゃねえか。見てろよ、この腐れ人間どもがあああ」

 控室の中で絶叫していた。

「よーしっ、変身完了。行くぜ!」

「ッシャアアアー!」

 ジオンと肩を組んで、客席へと突撃した。

                              (次回につづく)