あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈最終話〉

Je m'appelle

「じゃあ、次の中から選んでください」

「え?」

「死に方です」

「あ、ああ。もう始まってしまうのね」

 心の準備が間に合わない。

「A安楽死、B悶絶死、ハイどっち?」

「Aに決まっているでしょ」

「あー、つまんないヒト」

「つまらなくてもいいから絶対安楽死にしてよ。ふざけたりしないでよ、ここは。頼むから」

「じゃあ次の問題です」

「問題なのかよ」

「A五分後に死ぬ、B五百年後に死ぬ」

「Bはないでしょ」

「じゃあAですね」

「Aって五分後? 急過ぎるよ。そもそもどうして二択なの。他の選択肢は?」

「ありません」

「面倒臭がってるでしょ」

「そうです」

「そこは手間を惜しまないでよ。大事なところなんだから」

「いちいちうるさいヒトですね。もう始めますよ」

「えっ! なに? まさか五分後で決定しちゃったの!」

 その時、雨と風がひときわ強く雨戸を叩き、天を破壊するような雷鳴が空気を震わせたかと思うと、全ての電気が突然麻痺して、部屋の中が真っ暗になった。

 その闇の中で、冷たい体を持った者が、愚直に熱を発し続けるこの体に抱きついてきた。

「シエち...」

 冷たい唇が、この唇に押し付けられた。二十七年間コーヒー牛乳をすすることを主たる任務としてきたこの唇に。

 何度も想像しようとしたが想像し切れなかった感触。

 これがシエラの殺人儀式?

 怖いけれど、嬉しい。

 嬉しいけれど、猛烈に怖い。

 でも、もったいないから楽しもう。

 質感、形状、皮膚感覚。

 まもなく自分のものではなくなるらしいけれど、せっかくだから細胞に記憶させておこう。

 冷たい鼻息と温かい鼻息が交錯する。

 粘膜が触れ合い、体液が行き交う。

 唇と唇の間に迷い込んだ髪を、シエラの舌が器用に除ける。

 その舌が気まぐれに、私の左の鼻の穴の中へと侵入してきた。

「ん……」

 企みの成功したときに見せるあの笑顔が、暗闇の中でも分かる。

「うす塩ですね」

「真面目に殺して、シエちゃん」

「いやです」

 

 闇の中、男物のパジャマを着たシエラをお姫様抱っこして、さっきまでウサギを横たえていた布団に移動する。

 しまむらで買った安い布団の上、向かい合って座り、冷たい手を両手で包む。

 こんな時にも手汗は平常通り分泌されている。

「シエちゃん。やっぱり怖いよ、死ぬのは」

「そうですか?」

「うん。すごく怖い」

「じゃあ」

 そう言うと、サイズの合わないパジャマを着た死神はメガネを外し、闇の向こうに無限の軌道を描くようにしてそれを放り投げた。そうして、怯える哀れな男にレンタルボディーの全体重を預けた。重みを支え切れず布団の上にぐでんと仰向けになった腹筋の弱い男のその顔に、人殺しの女神は裸眼になった顔を近付けて、真珠色の吐息とともにその無防備な男の、意外に形の良い耳を甘噛みした。

「ホ…ノ…オ…さん」

「え」

「大、好き」

「!」

「ホノオさん、大好き」

「シエ...ちゃん」

「ホノオさん」

「ぼくも、大好きだよ、シエちゃん」

「シエラも、ホノオさん、大好きです」

「シエちゃん」

「ホノオさん、大好き、大好き、大好き、大好き。ホノオくん、ホノオくん、ホノオくん、大好き、大好き、大好き……。ホノちゃん、ホノちゃん、ホノちゃん......」

「死んでも、いいかも」

「大嫌い」

「え......」

「だけど、大好き……ヨ」

「シエちゃん……」

 いつも一人で寝ていた布団の上で、シエラと二人、裸になって体を合わせた。冷たいけれど、柔らかくて、いつまでもいつまでもマシュマロの肌触りと、桃色の香りを感じていたいのだけれど、眠くて、とんでもなく眠くて、目蓋が重くて持ち上がらない。パトカーのサイレンの音? 近づいてくる。マンションの前で止まった。どうしたんだろう。玄関のドアを殴打する音。何やら男が激しく怒鳴っているような気がするけれど、全てが幻聴のような気もする。

 夢か? これは、夢なのか? 人生そのものが、全て夢だったのか?

 暗闇の中で、光が不規則に躍り始める。

 空気と水の粒子が別れを告げに来た。

 体が一次方程式のように軽い。

 そうか。方程式だったのか、自分は。

 ん? ちがうか。

 エントロピーだったか? エンタルピーだったか。どっちだ?

 何だっけ。

 まあ、いいか、何でも。

 

 揺れる光の縞に包まれて、浮揚する。

 裸の男女の肉体を重ねる様を、天井から虚ろに見下ろす。

 フロアをいくつも透過し、空気を切って舞い上がる。

 四角い建造物の屋上が見えた。

 建物の外で、赤い光線が回転している。

 四角い建物も、赤い光も、加速度を上げて遠ざかる。

 街が縮む。

 全ての同心円が、中心に次々と吸い込まれてゆく。

 四つの島が視野に収まったかと思うと、あっという間に小さくなる。

 あ。あれは日本だ。知っている。

 彼方へ飛んで行く青い星は地球だ。

 あそこに住んでいたんだ、自分は。

 え? 方程式として?

  

 どこに向かっているのか皆目見当がつかない。

 ものすごいスピードだ。

 ちょっと、誰か、止めて。

 止めてよ、誰か。

 速くて、遠くて、怖い、怖い、怖い、

 怖いよおおお。

 

 ―― 気のせいですよ。

   恐怖は、ただの記憶です。

   もうすぐ消えます。

 

 ―― え? 誰? 

   さっきから吾輩と一緒にいた?

 

 ―― いますよ、ずっと。

 

 ―― 本当? なんだか嬉しいな。

   どうして嬉しいんだろう?

   あ、思い出した。

   シエラだ。

   何か違う。

   なんだっけ。

   そうだ。

   シエちゃんって呼んでいたんだ。

   無性にそう呼びたかった。

   だから訊いたんだ。

   シエちゃんって呼んでいいですか?

   敬語だったよね。

   そうだ。大好きだったんだ。

   そうか。

   シエちゃんがいると、嬉しいのか。

 

 ―― 嬉しさも、ただの記憶です。

 

 ―― え。そうなの?

   シエちゃんは何方程式?

 

 ―― 方程式じゃありませんけど、

   似たようなものです。

 

 ―― あれ? なんでだろう。

   もう怖くないよ。

 

 ―― あたりまえです。

   もう体がないんですから。

 

 ―― そうか。吾輩は死んだのか。

 

 ―― イイエ。まだ途中です。

   これが死。

   ちゃんと、見てください。

 

 ―― これが、死。

 

 時空が歪んで渦を巻く

 全ての存在から解放される

 自分が存在することからも解放される

 ああ なんて軽いんだ

 過去も現在も未来もない

 何の広がりもない

 いずれの方向もない

 自他の境目がなくなり

 何もかもが渦に巻き込まれて

 強烈な光になる

 光が凝縮して闇になる

 闇の直径がゼロになる

 黙ってあるのは ただ 概念


 無


 そして 全てを 思い出した

 

(了)

 

※最後までお付き合いくださいまして誠にありがとうございました。

 次回は「陰毛」をモチーフに書こうと思っています。