シエラ〈第35話〉
Je m'appelle
「……え?」
「神です。ダーナ神族の最高神です」
天上で雷鳴が轟く。
「ちょっ、待って。吐くかも」
「いいですよ、吐いて」
渦巻くものを抑えながら流しに辿り着き、洗い桶の底と向かい合う。聞かせたくない汚い声が出てしまった。
「シエラも驚きました。そこのヒトが初めてダグザって言った時は」
「ちょっと、下からも漏れた」
「言わなくても音と臭いで分かります。ダグザって聞いた時はビックリしました。記憶が戻ったのかと思って」
人が吐いたり漏らしたりしているのに、そよ風ほども気にせずにシエラは続ける。
「普通、人間になってる間は絶対に思い出さないはずですから」
「ふぅ……。なら、生まれる前の記憶を、ぼくは今、失っているってこと?」
コップに水道水を注ぎながら問う。
「そうです。さすがにダグザレベルの神だと思い出しちゃうのかなって、あの時は少し引きました」
水で口をすすぐ。
「ちょっとパンツ替えてきていい?」
「ええ! うんこ漏らしたくらいでわざわざですか?」
「うんこ漏らした時に替えないでいつ替えるんだよ!」
「じゃあ早くしてきてください。神経質なヒトですね、まったく」
洗い桶の中身をトイレに流す。
ウォシュレットで尻を洗いながら目の前に見ているのは、見慣れたいつもの壁だ。
「ダグザレベル……。はぁ……」
キッチンのテーブルに戻る。
「遅いですね。お尻が何個あるんですか」
私のパジャマを着たシエラは、座ろうとする私の尻を叩く。
「二つだよ。シエちゃんとぼくは、その頃どんな関係だったの?」
「ダグザは豊穣と再生を司る神で、シエラは死を司る神です。つまり、二人のお仕事は正反対なんですけど、何億年も前からチームなんですよ」
「何億年も……」
「ハイ。命のバランスをとることが二人のお仕事ですから。人間についても、サルと分かれた時から、二人でずっと見守ってきたんです。人間は昔、マジで弱い生き物だったので」
「えっ。弱かったの?」
「今も丸裸なら弱いままですよ。戦闘能力は低いし、木に登るのも下手くそだし、走るのも遅いし、皮膚は転んだだけで破けるほど薄っぺらいし、細菌やウイルスにも簡単に負けちゃうので、弱すぎーって思って二人とも最初はフリーズしてました」
「ああ。そういう弱さか」
「そんな人間が、一人ひとりの弱さを補い合うために群れを強化して社会を作り上げ、弱い個体でも生きていけるように文明を築きました。その様子を見て、初め二人はオッケー、やるじゃんって思ってたんですよ」
「社会とか文明って、そういうものだったのか……」
「ところがやがて、簡単には死ななくなった人間のキモいうぬぼれが始まりました。人間の増長はついに、それを黙って見ていてはいけないと、ダグザがマジモードになるところまで来てしまったんです。そしてダグザは、人間を知るために、また、人間という毛のないサルの捌き方を決めるために、一度自分自身がその裸のサルになってみる必要があると考えたんですよ」
「ダグザという神が自分自身で人間になることを決めて、それで生まれてきたのが、日本人のこのぼくなの? 自分で言うのも変だけれど、ぼくって、ものすごく普通の人間だよ。いや、普通っていうのはちょっと背伸びしているな。普通以下かも」
「どっちでもいいです。シエラたちは人間なんて金太郎飴みたいなものだと思ってますから。たとえば人間も、ミミズに対しては偉いミミズとか平凡なミミズとかって区別してませんよね」
「うん」
「それと同じです」
「人間とミミズが同じなの?」
「ハイ。人間って、ダグザやシエラから見ると、ちょーバカなので」
「でも、さっきシエちゃんも言っていたように、高度な文明を生み出して、原子力を発見したり、火星に探査機を飛ばしたり、人工知能を開発したりしているよ。動物の中では結構賢い方だと思うんだけれど」
「次元が違い過ぎます。これから先、人間がどんなに文明を発達させたとしても、ミミズはミミズ、ホモサピエンスはホモサピエンス、大して変わりません」
「うーん、さすがに納得がいかないな」
「てゆうか、文明を手に入れてしまった分、人間はミミズよりヤバいんですよ」
「何がヤバいの?」
「想像力の獲得と農業の発明がヤバさの根っこにあるんですけど、特にヤバいのは科学が異常なペースで進歩したこの三百年です。鉱物も生物も好き勝手に使い散らかして。群れと群れの争いで、狂った武器を撃ち散らかして。人間のせいで、地球と、そこに住む生き物たちがどれほど傷付けられてるか分かってますか?」
「分かっているけど……」
「分かって、何をしましたか?」
「レジ袋はなるべくもらわないとか、ゴミを分別するとか」
「あとは?」
「うーん、それくらいかな。あとは特に何も……」
「それで、自分だけは善良な人間だと思ってるんでしょ。人畜無害とか言っちゃって」
「うん、まぁ。シエちゃんには心の中を読まれているから、反論のしようもないな」
「その状態を確認するために、ダグザは人間になったんですよ」
「その状態?」
「自分がどれほど愚かなのかが分からないほど愚かな状態です」
「厳しいな。それで、ダグザはわざわざ人間になると決めておきながら、どうして自分を殺すことをシエちゃんに依頼したの?」
「グズグズしてると、取り返しのつかないことになってしまいますし、研究の目的も明らかだったからです。それを達成するには三〇年ほどあれば十分だと思ったんでしょ。そこのヒトはあと三年くらいで三〇歳ですよね」
「うん」
「だからそろそろお仕事の時間だなぁって思って、シエラ降りて来たんですよ」
「三〇歳でぼくは死ぬの?」
「オジサンが自分でそう決めたんですよ」
「ぼくが、自分で……」
「実は、その時に頼まれてたことが、もう一個あるんですよ」
「三〇歳で殺してくれということ以外に、シエちゃんに頼んだことがもう一つあるの?」
「ハイ。せっかくだから、命を取る時は一個実験をしてみてくれって」
「実験?」
「死ぬことを何より恐れる人間が、自分から喜んで死ぬようにできるかどうか、面白いからちょっと試してみてくれって」
「ぼくが、喜んで……」
「ダグザの遊び心です」
「そんなこと、言っちゃっていいの? いわゆるネタバレじゃない?」
「ヤバかったですかね?」
「知らないよ、ぼくに訊かれても。それより、一つ訊いてもいい?」
「何ですか?」
「ぼくは、死んだ後も、シエちゃんに逢えるの?」
「逢えますよ」
「何回も?」
「ずっと一緒です。ダグザとシエラは宇宙そのものですから」
「宇宙そのもの? なんだかよく分からないけれど、ずっと一緒にいられるのなら、この命、シエちゃんに預けてみてもいいような気がする......かも」
「それじゃ、これからデートしましょ」
「外は大嵐だよ」
「じゃあ、小嵐になったらデートしましょ。いっぱいデートして、地球のいろんなとこ、二人で見に行きましょ」
「あのさ、言いにくいんだけれど、もうこの世界で生きるの難しいと思うんだ、二人とも」
「どうしてですか?」
「シエちゃんがウサギに変身するとこ、思いっ切りテレビカメラに撮られた」
「ウケる」
「あと、ぼくが人生で最大のキレ方をして、店で大暴れするところも」
「ええ! オジサンがキレたんですか?」
「うん。自分でも驚くほどキレた。明日には二人の映像が全国に流れて、大変な騒ぎになっていると思うよ。今ここに警察が踏み込んで来てもおかしくない。実際にそうなっていないのは、相手にもやましい点があったからなのか、台風のお蔭なのかわからない」
「マジでウケるんですけど」
「まったくウケないよ。どうするつもり?」
「じゃあ、今日で終わりにしますか」
「今日で終わりにするって、つまり、……」
「今日これから死ぬっていうことです」
(次回につづく)