あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈最終話〉

Je m'appelle

「じゃあ、次の中から選んでください」

「え?」

「死に方です」

「あ、ああ。もう始まってしまうのね」

 心の準備が間に合わない。

「A安楽死、B悶絶死、ハイどっち?」

「Aに決まっているでしょ」

「あー、つまんないヒト」

「つまらなくてもいいから絶対安楽死にしてよ。ふざけたりしないでよ、ここは。頼むから」

「じゃあ次の問題です」

「問題なのかよ」

「A五分後に死ぬ、B五百年後に死ぬ」

「Bはないでしょ」

「じゃあAですね」

「Aって五分後? 急過ぎるよ。そもそもどうして二択なの。他の選択肢は?」

「ありません」

「面倒臭がってるでしょ」

「そうです」

「そこは手間を惜しまないでよ。大事なところなんだから」

「いちいちうるさいヒトですね。もう始めますよ」

「えっ! なに? まさか五分後で決定しちゃったの!」

 その時、雨と風がひときわ強く雨戸を叩き、天を破壊するような雷鳴が空気を震わせたかと思うと、全ての電気が突然麻痺して、部屋の中が真っ暗になった。

 その闇の中で、冷たい体を持った者が、愚直に熱を発し続けるこの体に抱きついてきた。

「シエち...」

 冷たい唇が、この唇に押し付けられた。二十七年間コーヒー牛乳をすすることを主たる任務としてきたこの唇に。

 何度も想像しようとしたが想像し切れなかった感触。

 これがシエラの殺人儀式?

 怖いけれど、嬉しい。

 嬉しいけれど、猛烈に怖い。

 でも、もったいないから楽しもう。

 質感、形状、皮膚感覚。

 まもなく自分のものではなくなるらしいけれど、せっかくだから細胞に記憶させておこう。

 冷たい鼻息と温かい鼻息が交錯する。

 粘膜が触れ合い、体液が行き交う。

 唇と唇の間に迷い込んだ髪を、シエラの舌が器用に除ける。

 その舌が気まぐれに、私の左の鼻の穴の中へと侵入してきた。

「ん……」

 企みの成功したときに見せるあの笑顔が、暗闇の中でも分かる。

「うす塩ですね」

「真面目に殺して、シエちゃん」

「いやです」

 

 闇の中、男物のパジャマを着たシエラをお姫様抱っこして、さっきまでウサギを横たえていた布団に移動する。

 しまむらで買った安い布団の上、向かい合って座り、冷たい手を両手で包む。

 こんな時にも手汗は平常通り分泌されている。

「シエちゃん。やっぱり怖いよ、死ぬのは」

「そうですか?」

「うん。すごく怖い」

「じゃあ」

 そう言うと、サイズの合わないパジャマを着た死神はメガネを外し、闇の向こうに無限の軌道を描くようにしてそれを放り投げた。そうして、怯える哀れな男にレンタルボディーの全体重を預けた。重みを支え切れず布団の上にぐでんと仰向けになった腹筋の弱い男のその顔に、人殺しの女神は裸眼になった顔を近付けて、真珠色の吐息とともにその無防備な男の、意外に形の良い耳を甘噛みした。

「ホ…ノ…オ…さん」

「え」

「大、好き」

「!」

「ホノオさん、大好き」

「シエ...ちゃん」

「ホノオさん」

「ぼくも、大好きだよ、シエちゃん」

「シエラも、ホノオさん、大好きです」

「シエちゃん」

「ホノオさん、大好き、大好き、大好き、大好き。ホノオくん、ホノオくん、ホノオくん、大好き、大好き、大好き……。ホノちゃん、ホノちゃん、ホノちゃん......」

「死んでも、いいかも」

「大嫌い」

「え......」

「だけど、大好き……ヨ」

「シエちゃん……」

 いつも一人で寝ていた布団の上で、シエラと二人、裸になって体を合わせた。冷たいけれど、柔らかくて、いつまでもいつまでもマシュマロの肌触りと、桃色の香りを感じていたいのだけれど、眠くて、とんでもなく眠くて、目蓋が重くて持ち上がらない。パトカーのサイレンの音? 近づいてくる。マンションの前で止まった。どうしたんだろう。玄関のドアを殴打する音。何やら男が激しく怒鳴っているような気がするけれど、全てが幻聴のような気もする。

 夢か? これは、夢なのか? 人生そのものが、全て夢だったのか?

 暗闇の中で、光が不規則に躍り始める。

 空気と水の粒子が別れを告げに来た。

 体が一次方程式のように軽い。

 そうか。方程式だったのか、自分は。

 ん? ちがうか。

 エントロピーだったか? エンタルピーだったか。どっちだ?

 何だっけ。

 まあ、いいか、何でも。

 

 揺れる光の縞に包まれて、浮揚する。

 裸の男女の肉体を重ねる様を、天井から虚ろに見下ろす。

 フロアをいくつも透過し、空気を切って舞い上がる。

 四角い建造物の屋上が見えた。

 建物の外で、赤い光線が回転している。

 四角い建物も、赤い光も、加速度を上げて遠ざかる。

 街が縮む。

 全ての同心円が、中心に次々と吸い込まれてゆく。

 四つの島が視野に収まったかと思うと、あっという間に小さくなる。

 あ。あれは日本だ。知っている。

 彼方へ飛んで行く青い星は地球だ。

 あそこに住んでいたんだ、自分は。

 え? 方程式として?

  

 どこに向かっているのか皆目見当がつかない。

 ものすごいスピードだ。

 ちょっと、誰か、止めて。

 止めてよ、誰か。

 速くて、遠くて、怖い、怖い、怖い、

 怖いよおおお。

 

 ―― 気のせいですよ。

   恐怖は、ただの記憶です。

   もうすぐ消えます。

 

 ―― え? 誰? 

   さっきから吾輩と一緒にいた?

 

 ―― いますよ、ずっと。

 

 ―― 本当? なんだか嬉しいな。

   どうして嬉しいんだろう?

   あ、思い出した。

   シエラだ。

   何か違う。

   なんだっけ。

   そうだ。

   シエちゃんって呼んでいたんだ。

   無性にそう呼びたかった。

   だから訊いたんだ。

   シエちゃんって呼んでいいですか?

   敬語だったよね。

   そうだ。大好きだったんだ。

   そうか。

   シエちゃんがいると、嬉しいのか。

 

 ―― 嬉しさも、ただの記憶です。

 

 ―― え。そうなの?

   シエちゃんは何方程式?

 

 ―― 方程式じゃありませんけど、

   似たようなものです。

 

 ―― あれ? なんでだろう。

   もう怖くないよ。

 

 ―― あたりまえです。

   もう体がないんですから。

 

 ―― そうか。吾輩は死んだのか。

 

 ―― イイエ。まだ途中です。

   これが死。

   ちゃんと、見てください。

 

 ―― これが、死。

 

 時空が歪んで渦を巻く

 全ての存在から解放される

 自分が存在することからも解放される

 ああ なんて軽いんだ

 過去も現在も未来もない

 何の広がりもない

 いずれの方向もない

 自他の境目がなくなり

 何もかもが渦に巻き込まれて

 強烈な光になる

 光が凝縮して闇になる

 闇の直径がゼロになる

 黙ってあるのは ただ 概念


 無


 そして 全てを 思い出した

 

(了)

 

※最後までお付き合いくださいまして誠にありがとうございました。

 次回は「陰毛」をモチーフに書こうと思っています。

シエラ〈第35話〉

Je m'appelle

「……え?」
「神です。ダーナ神族最高神です」
 天上で雷鳴が轟く。
「ちょっ、待って。吐くかも」
「いいですよ、吐いて」
 渦巻くものを抑えながら流しに辿り着き、洗い桶の底と向かい合う。聞かせたくない汚い声が出てしまった。
「シエラも驚きました。そこのヒトが初めてダグザって言った時は」
「ちょっと、下からも漏れた」
「言わなくても音と臭いで分かります。ダグザって聞いた時はビックリしました。記憶が戻ったのかと思って」
 人が吐いたり漏らしたりしているのに、そよ風ほども気にせずにシエラは続ける。
「普通、人間になってる間は絶対に思い出さないはずですから」
「ふぅ……。なら、生まれる前の記憶を、ぼくは今、失っているってこと?」
 コップに水道水を注ぎながら問う。
「そうです。さすがにダグザレベルの神だと思い出しちゃうのかなって、あの時は少し引きました」
 水で口をすすぐ。
「ちょっとパンツ替えてきていい?」
「ええ! うんこ漏らしたくらいでわざわざですか?」
「うんこ漏らした時に替えないでいつ替えるんだよ!」
「じゃあ早くしてきてください。神経質なヒトですね、まったく」

 洗い桶の中身をトイレに流す。
 ウォシュレットで尻を洗いながら目の前に見ているのは、見慣れたいつもの壁だ。
「ダグザレベル……。はぁ……」
 キッチンのテーブルに戻る。
「遅いですね。お尻が何個あるんですか」
 私のパジャマを着たシエラは、座ろうとする私の尻を叩く。
「二つだよ。シエちゃんとぼくは、その頃どんな関係だったの?」
「ダグザは豊穣と再生を司る神で、シエラは死を司る神です。つまり、二人のお仕事は正反対なんですけど、何億年も前からチームなんですよ」
「何億年も……」
「ハイ。命のバランスをとることが二人のお仕事ですから。人間についても、サルと分かれた時から、二人でずっと見守ってきたんです。人間は昔、マジで弱い生き物だったので」
「えっ。弱かったの?」
「今も丸裸なら弱いままですよ。戦闘能力は低いし、木に登るのも下手くそだし、走るのも遅いし、皮膚は転んだだけで破けるほど薄っぺらいし、細菌やウイルスにも簡単に負けちゃうので、弱すぎーって思って二人とも最初はフリーズしてました」
「ああ。そういう弱さか」
「そんな人間が、一人ひとりの弱さを補い合うために群れを強化して社会を作り上げ、弱い個体でも生きていけるように文明を築きました。その様子を見て、初め二人はオッケー、やるじゃんって思ってたんですよ」
「社会とか文明って、そういうものだったのか……」
「ところがやがて、簡単には死ななくなった人間のキモいうぬぼれが始まりました。人間の増長はついに、それを黙って見ていてはいけないと、ダグザがマジモードになるところまで来てしまったんです。そしてダグザは、人間を知るために、また、人間という毛のないサルの捌き方を決めるために、一度自分自身がその裸のサルになってみる必要があると考えたんですよ」
「ダグザという神が自分自身で人間になることを決めて、それで生まれてきたのが、日本人のこのぼくなの? 自分で言うのも変だけれど、ぼくって、ものすごく普通の人間だよ。いや、普通っていうのはちょっと背伸びしているな。普通以下かも」
「どっちでもいいです。シエラたちは人間なんて金太郎飴みたいなものだと思ってますから。たとえば人間も、ミミズに対しては偉いミミズとか平凡なミミズとかって区別してませんよね」
「うん」
「それと同じです」
「人間とミミズが同じなの?」
「ハイ。人間って、ダグザやシエラから見ると、ちょーバカなので」
「でも、さっきシエちゃんも言っていたように、高度な文明を生み出して、原子力を発見したり、火星に探査機を飛ばしたり、人工知能を開発したりしているよ。動物の中では結構賢い方だと思うんだけれど」
「次元が違い過ぎます。これから先、人間がどんなに文明を発達させたとしても、ミミズはミミズ、ホモサピエンスホモサピエンス、大して変わりません」
「うーん、さすがに納得がいかないな」
「てゆうか、文明を手に入れてしまった分、人間はミミズよりヤバいんですよ」
「何がヤバいの?」
「想像力の獲得と農業の発明がヤバさの根っこにあるんですけど、特にヤバいのは科学が異常なペースで進歩したこの三百年です。鉱物も生物も好き勝手に使い散らかして。群れと群れの争いで、狂った武器を撃ち散らかして。人間のせいで、地球と、そこに住む生き物たちがどれほど傷付けられてるか分かってますか?」
「分かっているけど……」
「分かって、何をしましたか?」
「レジ袋はなるべくもらわないとか、ゴミを分別するとか」
「あとは?」
「うーん、それくらいかな。あとは特に何も……」
「それで、自分だけは善良な人間だと思ってるんでしょ。人畜無害とか言っちゃって」
「うん、まぁ。シエちゃんには心の中を読まれているから、反論のしようもないな」
「その状態を確認するために、ダグザは人間になったんですよ」
「その状態?」
「自分がどれほど愚かなのかが分からないほど愚かな状態です」
「厳しいな。それで、ダグザはわざわざ人間になると決めておきながら、どうして自分を殺すことをシエちゃんに依頼したの?」
「グズグズしてると、取り返しのつかないことになってしまいますし、研究の目的も明らかだったからです。それを達成するには三〇年ほどあれば十分だと思ったんでしょ。そこのヒトはあと三年くらいで三〇歳ですよね」
「うん」
「だからそろそろお仕事の時間だなぁって思って、シエラ降りて来たんですよ」
「三〇歳でぼくは死ぬの?」
「オジサンが自分でそう決めたんですよ」
「ぼくが、自分で……」
「実は、その時に頼まれてたことが、もう一個あるんですよ」
「三〇歳で殺してくれということ以外に、シエちゃんに頼んだことがもう一つあるの?」
「ハイ。せっかくだから、命を取る時は一個実験をしてみてくれって」
「実験?」
「死ぬことを何より恐れる人間が、自分から喜んで死ぬようにできるかどうか、面白いからちょっと試してみてくれって」
「ぼくが、喜んで……」
「ダグザの遊び心です」
「そんなこと、言っちゃっていいの? いわゆるネタバレじゃない?」
「ヤバかったですかね?」
「知らないよ、ぼくに訊かれても。それより、一つ訊いてもいい?」
「何ですか?」
「ぼくは、死んだ後も、シエちゃんに逢えるの?」
「逢えますよ」
「何回も?」
「ずっと一緒です。ダグザとシエラは宇宙そのものですから」
「宇宙そのもの? なんだかよく分からないけれど、ずっと一緒にいられるのなら、この命、シエちゃんに預けてみてもいいような気がする......かも」
「それじゃ、これからデートしましょ」
「外は大嵐だよ」
「じゃあ、小嵐になったらデートしましょ。いっぱいデートして、地球のいろんなとこ、二人で見に行きましょ」
「あのさ、言いにくいんだけれど、もうこの世界で生きるの難しいと思うんだ、二人とも」
「どうしてですか?」
「シエちゃんがウサギに変身するとこ、思いっ切りテレビカメラに撮られた」
「ウケる」
「あと、ぼくが人生で最大のキレ方をして、店で大暴れするところも」
「ええ! オジサンがキレたんですか?」
「うん。自分でも驚くほどキレた。明日には二人の映像が全国に流れて、大変な騒ぎになっていると思うよ。今ここに警察が踏み込んで来てもおかしくない。実際にそうなっていないのは、相手にもやましい点があったからなのか、台風のお蔭なのかわからない」
「マジでウケるんですけど」
「まったくウケないよ。どうするつもり?」
「じゃあ、今日で終わりにしますか」
「今日で終わりにするって、つまり、……」
「今日これから死ぬっていうことです」

(次回につづく)

シエラ〈第34話〉

Je m'appelle

「はい、どうぞ。紅茶と、さっきの飲み物」
「ありがとうございます。あ。これですか、ウサギのシエラが飲んだの」
「うん。黄金比のコーヒー牛乳」
「じゃあ、こっちから飲んでみます。いただきまーす」
 一口飲んで、シエラは首をかしげた。
「これ、違いますよ。さっきの方がおいしかったです」
「さすがだね。たぶんシエちゃんの言う通りだよ。当たり外れがあるんだ」
「ふーん。まあ、これも普通においしいからいいですけど」
「で、シエちゃん、さっきの話の続きは?」
「さっきの話って、何でしたっけ?」
「もう話しても怒られないだろうから話します、みたいなこと言っていたでしょ」
「そうでした。忘れてました。テヘペロ
 そう言ってシエラは少し上気した顔で私を見つめる。
テヘペロは新しいね、とか言ってくれないんですか?」
「え? レンタルボディーに初めからインストールされていた言葉でしょ?」
「違いますよ。メイドカフェで覚えたんです!」
メイドカフェ? シエちゃん、女子一人でメイドカフェなんか行ったの?」
「違いますよ。働き始めたんです」
「ええ! 死神なのに?」
「あれ? 言ってませんでしたか?」
「聞いていないよ」
「ホストクラブで働いてるって自慢するヒトがいるから対抗したんです」
「誰がいつ自慢したんだよ」
「そこのヒトが会うたびにです」
「自慢なんかしていないよ」
「してました!」
「もう。分かったよ。正直に言うと少し自慢していました。ちょっとシエちゃん、お願いだから話の続きを早く聞かせて。朝になっちゃうと本当にまずいから」
「最初から素直に認めればいいんですよ。では。エッヘン。そこのヒトからぁ、命をもらえってぇ、シエラに命令したのはぁ、デケデケデケデケデケ......」
「早くして。叩くよ、しまいには」
「デデン! 実はそこのヒト自身なんですう」
「え。どういうこと。あり得ないでしょ、そんなこと」
「あり得るんですう」
「全く分からない。ちょっと分かるように説明してよ」
「順番に話しますから、慌てないでください」
 表で風が不気味な唸り声を上げている。
「シエラがそこのヒトにこのお仕事を頼まれたのはあ、そこのヒトがあ、生まれる前のことなんですう」
「生まれる前? 生まれる前にどうやってシエちゃんに会って、まだ生まれてもいない自分の命を奪うことを、どうやってシエちゃんに頼めるの?」
「つまりい、そこのヒトとシエラはあ、そこのヒトが生まれる前からあ、知り合いだったんですう」
「ええっ。何が何だかさっぱり分からないよ」
「慌てないで聞いてください。文句ばかり言ってると、話すの止めますよ!」
「分かったよ。あまりに謎が深過ぎるからつい。話を遮ってしまってごめん。続きを聞かせてくれる?」
「じゃあ、話しますね。生まれる前のそこのヒッ!」
 風で何かが飛ばされて来たらしく、雨戸が大きな音を立てた。
「うるさいですね! シエラは今大切なことを話そうとしてるんですよ!」
 雨戸に向かってシエラは怒鳴った。
「シエちゃん、台風とも交信できるの!?」
「それはさすがに無理です」
「なんだよ、もう、びっくりするなぁ。それで、生まれる前のぼくが一体どうしたの?」
「ダグザです」
「はい?」
「生まれる前のそこのヒトは、ダグザだったんです」
「どういうこと?」
「生まれる前のそこのヒトは、ダグザという名前の、神だったんです」

 

(次回につづく)

シエラ〈第33話〉

Je m'appelle

 とても死神には見えない。
 外見上攻撃性は皆無である。
 それにしても、シエラはいつまでこの草食動物の格好でいるつもりだろうか。百歩譲って姿はこのままでいることを許すとしても、せめて意識だけは回復してもらわねば困る。明朝が訪れるまでに、今後の身の振り方を一緒に考えてもらわないと。
 タイガーバームの匂いでも嗅がせるか。
 中学の修学旅行の時に、タイガーバームは何にでも効くと豪語する同級生がいた。それで家に帰るや否や、自分も母親にねだって買ってもらったのだ。その時のタイガーバームをこの部屋に持ってきている。動かしていなければ薬箱に入っているはずだ。
 あった。
 このエキゾチックな小瓶ならば、確かに何にでも効きそうだ。
 中学の同級生は少しでいい、少しでいい、そんなにたくさん使うと効かなくなるぞ、などと言っていたが、あれは単に自分のタイガーバームを惜しんだからに相違あるまい。やはり小量より大量の方が効くはずだ。
 小瓶に残っていたタイガーバームの全量を、ウサギの鼻面に入念に塗りたくる。
 と、ウサギは、盛んに鼻を動かしたり、顔をしかめたりする。
 やがて小さなくしゃみを一つした。
 すると落ち着いて、また静かな寝息をたて始めた。
 中学の同級生に騙された。そういえば修学旅行の時も、蚊に刺された痒みが、タイガーバームを塗っても一向に治まらなかったという記憶が甦ってきた。あの時、他の連中が効いた効いたと騒いでいたので、本当はまるで効いた気がしないのに、同調圧力に負けて効いたと言ってしまったのだった。
 仕方がないので、現実逃避的にコーヒーブレイクとする。
 キッチンに立って、冷蔵庫を開け、コーヒー牛乳と普通の牛乳の紙パックを取り出す。もちろん黄金比のコーヒー牛乳を作るためである。しかしそのレシピは自分の皮膚感覚中にしかないため、実際黄金比ができるかどうかは時の運である。
 完成品を試飲する。
 完璧な出来上がりだ。
 自分史上最高傑作と言ってもよい。
 これは是非シエラにも飲ませてやらねば。
 黄金比を、ストローで吸って、ウサギの「人」の字の口の隙間に先端だけ挿入し、ゆっくりと流し込む。
 ウサギの喉が動き、黄金比の最高傑作がその体内に取り込まれたことが確認された。
 すると、あら不思議、ウサギの姿が、見ている目の前で形を変えてゆくではないか。耳が縮んでゆく。全身を覆った銀色の毛が消えてゆく。きめ細やかな肌が、鼻の稜線が、顎の角度が、頭髪のウェーブがよみがえる。
 黄金比のコーヒー牛乳には、神通力が宿っていたのだ。
 ウサギは、元の可憐なフランス人形に戻った。
 見慣れた鼻で、大きく一つ息をつく。そして、「人」の字から「w」の字に戻った口が、ムニャムニャと動く。
「シエちゃん」
「う……ん……」
 瞼が開き、その大きな鼈甲色の瞳が、天井の蛍光灯の光を反射する。ホームセンターで買ったいちばん安い蛍光灯の光を。
 胸ポケットにしまっておいたメガネを、そっと白桃の肌にすべらす。
「見える?」
「ハイ、見えます」
「水、飲む?」
「ハイ」
 シエラが身を起こした。
「あっ、今、ダメ」
「え?」
 シエラの身を覆っていたタオルケットが落ちて、白い上半身が露わになった。絹の乳房が目の前に現れる。永遠に見ていたいと主張する本能と、およそ一秒間にわたる激闘を演じたのち、辛うじて勝利を収め、虚空に目を逸らす。そして、天井を見ながら自分のパジャマとトランクスを手渡し、背を向けたまま、それを着るよう指示する。
 男物のパジャマを着たシエラは、長い袖を垂らし、ズボンの裾を引きずるのが面白いらしく、部屋の中を無意味に歩き回っている。
 そんな部屋の中の穏やかさとは対照的に、雨と風はますます強く雨戸を叩いている。
「シエちゃん、紅茶を淹れたよ。一緒に飲もう」
「ハイ。ありがとうございます」
「オムライスもできたよ。炊飯器が小さくて五合分しか作れなかったけれど」
「オムライスですか。ヤバっ」
「キュウリは何本食べる?」
「何本あるんですか?」
「四本くらい」
「少なっ。じゃあ三本ください」
「了解」
 シエラの前に、小さなティーカップと、大皿に盛った特大オムライスと、三本のキュウリを置いた。そして自分の座る席には、ティーカップのみを置いた。
「オムライスとキュウリ、食べないんですか?」
「うん、ぼくが食べたらシエちゃんの分が減っちゃうでしょ。そんなにお腹減っていないし」
「ええっ、一緒に食べましょうよー。どうせ五合と三本じゃシエラ全然足りませんから」
「そう言われてみればそうだね。じゃあ、もらおうか」
 普通の皿を用意し、オムライスを八分の一ほど取り分け、自分もキュウリを半分ほど食べることにした。残りの半分はシエラに譲った。
「いっただっきまぁす」
 シエラは大きなスプーンでオムライスをすくっては、小さな口いっぱいに頬張る。そして、左手に持ったキュウリを軽快な音でかじると、目を弓の形にして、お尻でバウンドする。
「雨と風、ヤバいですね」
 そう言いながら、シエラは大きな音を立てている雨戸の方を見た。洗濯ひもには、シエラの服とパンツとブラジャーと靴下が干してある。
「うん、すごいね。シエちゃんの住む世界には台風ってないの?」
「ありませんよ」
「ふーん。あのさ、シエちゃんがウサギになっている間に、いろいろ考えたんだけれど、ちょっと聞いてくれる?」
「何を考えたんですか?」
「シエちゃんの言っていたことの意味が分かったような気がするんだよ」
「シエラ、何を言いましたか?」
「親子の愛とか、友情とか、男女の愛とか、それから、肉体と魂についてとか」
「ああ、そういう話ですか。一人で考えてたんですね。聞きますよ」
 自分なりに理解したことを、言葉を選びながらシエラに話した。シエラはキュウリとオムライスを食べながら、時にうなずき、時に首をかしげながら聞いてくれた。
「どう?」
「ハイ、だいたい良いと思います。噴水の話はちょっと違いますけど」
「そうなの? まぁ、いいか。噴水の件は考え続けるよ。ただね、どうしても分からないことが、一つあるんだよ」
「何ですか?」
「それはね、どうしてシエちゃんがぼくの命を取ることにこだわるのかなってこと。前にも言ったけれど、人間なんて、何十億人もいるわけでしょう? 別にぼくじゃなくてもいいと思うんだよ」
「やっぱり、死にたくないんですか?」
「死ぬのはもちろん怖いけれど、覚悟はもう粗方出来上がっていると思うよ。今話したように、生きることの意味ってぼくなりに分かったつもりだからね。あと、やっぱり人間とは反りが合わなくて、上手くやっていけそうにないし。ただ、なぜぼくなのかなってこと」
 シエラはスプーンを止めて考え込んだ。
「分かりました。もう話しても怒られないと思うので、話します」
「怒られるって、誰に?」
「そこのヒトにです」
「ええっ、ぼくに? どういうこと?」
「話す前に、紅茶のおかわりをお願いします。あと、さっきシエラがウサギだった時に飲ませてくれたの、もう一杯ください。チョーおいしかったです」
「あ、ああ。ちょっと待って」
 胸のざわつきを抑えながら、二杯目の紅茶と二杯目の黄金比コーヒー牛乳の用意を始める。

 

(次回につづく)

シエラ〈第32話〉

Je m'appelle

 外は、思っていた以上の雨と風が吹き荒れている。
 XLサイズのウサギを抱えたまま手を挙げて、タクシーを止める。
「はい、どうぞ。どこまで行きますか?」
 定年後も働かざるを得ませんと白髪の後頭部に書いてある運転手に、自宅のある町の名を告げる。
「こんな嵐の中で仮装パーティーかい? いいねえ、若い人は」
 老人の観察力が低下していて救われた。
「いやあ、連れが酔って寝ちゃいまして、衣装を脱がせられませんでした。すみません、どうも」
「なぁんも、なんもだぁ。別にどんな格好しててもいいしょや。お客様は神様だもねぇ」
 確かに神様の一種ではある。
「もし良かったら、これを使ってください」
 年老いた運転手がタオルを貸してくれた。
「すみません。お借りします」
「なぁんも」
 タオルはオイルの臭いがした。
 フロントガラスを大粒の雨が叩いている。
 ワイパーがフル稼働でその雨を拭っている。
 狂った指揮者のタクトのようなそのワイパーの動きを見ながら、ああ、終わった、と思った。
 もうダグザには戻れない。ダグザどころか、人間社会に戻れない。
 明日になれば大騒ぎだろう。
 シエラがウサギに変身する映像が、そして、カオスの中心でアイスピックを持って呪いの言葉を吐く男の映像が日本中、もしかしたら世界中に流されるに違いない。そして、ぐなんぐなんになったウサギを抱きかかえ、取り散らかった店内と怯えた人々を後にして、二十七年間溜めに溜めた毒を撒き散らしながら立ち去る男の姿も。
 自分の膝の上でスースーと気持ち良さそうに寝息を立てている巨大なウサギを見た。
 酔ってしまうと、肉体からの緊急避難もできないのか、魂で語りかけても返事がない。
 聞こえるのは、風の唸り声と、地を殴りつけるような雨の音ばかりだ。
 オイル臭いタオルで、ウサギの顔についた水滴を拭った。ウサギのクセにちっとも温かくない。ウサギの姿になっても変温動物仕様は変わらないらしい。
 今度肉体のレンタルを利用する際には、もう少し商品の品質に気をつけるべきだと、目が覚めたらきっと言ってやろう。
「はい、着きましたよ」
 朝夕通っているコンビニの前にタクシーが止まった。
「ありがとうございます。おいくらですか?」
「四八二〇円です」
 財布から与謝野晶子を一枚抜いて、運転手に渡す。
「お釣りは結構です」
「すんませんねぇ。家は近いのかい? 傘は?」
「家はそこの路地を入ってすぐのところです。傘はありませんけれど平気です」
「したっけ、家の前まで行きますよ。こんな雨なんだから」
「いえ。そこの道は一方通行で、戻るとき大変だからいいです」
「そうかい。遠慮せんでもいいのに」
 こんな血の通った人が報われない世の中か。いや、騙されるな。善良に見えても根っこはあいつらと変わらないのかも。
 そんな無秩序な思考をタクシーの中に置き去りにして、ウサギを抱えて大嵐の車外へと踏み出した。弾丸のような大粒の雨に横面を叩かれながら、二〇メートルほど歩いてマンションのエントランスに辿り着いた。たったそれだけで着衣水泳をしたかのごとく全身がずぶ濡れになった。
 幸運なことに、エントランスから部屋まで誰にも出会わずに済んだ。まともな人は皆、家の中で息を潜めて、台風の通り過ぎるのを待っているのだろう。
 部屋の電気を点けて、冷たいウサギを万年床に横たえる。びしょ濡れになった服を脱がせ、バスタオルで全身を拭く。ドライヤーで全身の毛を乾かす。布団もびしょ濡れになってしまったので、客用の布団に取り換える。すっかり乾いたところでタオルケットを掛け、冷蔵庫から持ってきたミネラルウオーターを「人」の字の口の隙間に注ぎ込んだ。
 それにしても、どうしてウサギなんだ。
 ゾウではなく。クジラでもなく。
 いや、待てよ。
 それを言ったら、どうして自分は人間なんだ。
 ミジンコではなく。大腸菌でもなく。
 シエラは、自分には本来の姿などないと言っていた。あるのは念のみだと。
 白いヒゲの先端についた水滴が、呼吸のリズムに合わせて揺れている。
 ビルの上から身を投げた人の巻き添えを食って、死んでも構わない。
 シエラに初めて逢った時、そう思った。
 そう。死んでもいい。シエラと過ごせるのなら。
 生きる死ぬというのは、単なる肉体の話なのだ。
 そうか。
 友情も、親子の愛も、男女の愛も、そして、経済も、政治も、科学も、さらに、仁も、義も、礼も、智も、信も、人間が価値を置くものは、その殆ど全てが、肉体を維持するための方便に過ぎないのだ。
 色々なことが、今繋がったような気がする。


 ウサギの口が、草を食むように、嘘のないリズムで動いている。

 

(次回につづく)

 

シエラ〈第31話〉

Je m'appelle

「ハイ、オカワリ」と言ってアフマドが、シエラの前にノンアルコールの梅酒を置くと、シエラはそれをまた一気に飲み干した。
「くだらね~っ」
「シエラちゃん、死神なんだぁ。怖っわ」
「あんた、彼氏と同じ芸風になってきてるわよ。気を付けなさい」
 三人で、仏頂面したシエラをいじくり回している。どうやら冗談だと思ってくれたようで救われた。
「せっかくだから殺してもらいなさいよ、あんた」
「ああ、はい。そうですね」
 もうだめだ。心臓がもたない。アルコールでも飲んで一度落ち着こう。
 そこで、目の前のグラスにようやく口をつける。
 一口飲んで、再び心臓がキュッと縮んだ。
 これはノンアルコールだ。ということは。
 シエラを見る。
 ちょうどシエラの前にアフマドが、三杯目のグラスを置こうとしているところだった。
「ちょっとアフマド待って」
 アフマドの手から無理矢理グラスを奪い、その中身を飲んでみる。
「ナニスルカ!」
 アルコールだ。
 慌ててシエラを見る。
 もう完全に目が据わっている。
 まずい。どうまずいのか分からないが、怒涛のような不安が胸に押し寄せている。
「シエちゃん。帰ろう。ほら、立って」
 シエラの手を取ると、何かがいつもと違うような気がする。
 手の甲にこんな産毛、生えていただろうか? 産毛だけではない。サイズというか、指のバランスなどの造形というか。
 気のせいか。
 外で台風が吹き狂っていることとか、岩盤浴で一緒だった五人が場所を替えて久しぶりに集っていることとか、最底辺の学校生活を送ってきた自分が今ホストであることとか、自分に珍しくガールフレンドがいて、しかしそれが死神であることとか、やがて全国ネットで放送するためにテレビクルーが至近距離でカメラを回し続けていることとか、そんな特異な要素が密集し過ぎて、一時的に感覚を狂わされているだけなのかもしれない。
「シエちゃん。ほら、水飲んで」
 シエラの口に、水の入ったグラスを宛てがう。
 ん? 何か変だ。
 いつもより鼻の下の溝の彫りが深いような気がする。そして頬にも産毛が。
「やだぁ。なんかぁ、『雪の癒』を思い出しちゃわなぁい?」
「ほんとっスね」
「あのときと同じ顔ぶれが揃ってるだけに不吉よねぇ」
「キャーッ。シエラちゃんの頭、見てぇ」
 サクラが叫ぶ。
「何か変なものが生えてきてるよぉ。やだぁ、怖ぁい」
 全員の視線がシエラの頭に集まる。
 その光景の衝撃のあまり、私は呼吸の仕方をしばらく忘れた。
 シエラの銀色の髪の毛の隙間を割って、まさに今、猫の耳の先端のようなものが一センチばかり顔をのぞかせているのだ。
 猫耳カチューシャのことを思い出して、蘭丸の顔を見る。
「知らない、知らない、俺、知らないッスよ」
「やだっ、手も、手も、」
 そう言って、サクラが二メートルほども跳び退く。
 視線をシエラに戻すと、その手が見ている目の前で、銀色の毛を密に生やしながら獣の前肢へと変形しつつある。
 騒ぎに気付いて、店のそこかしこから、「どうした、どうした」と人が集まってくる。テレビカメラは舐めるようにシエラの変身を映している。
「撮るな! カメラを止めろ!」
 誰かが私の気持ちを代弁するかのように、かなり強い調子で怒鳴ってくれた。
 次の瞬間、群衆の視線が自分に集まっていることから、怒鳴ったのが他の誰でもない、自分自身であることを知った。
 体と理性の分離が生じた。
 今、体が、感性が、理性を権力の座から引きずり下ろして、私の中で主導権を握った。
 自分の体は田之森のカメラを押し退け、周りの野次馬どもに「見るな」と叫び、獣になりつつあるシエラを抱え上げようとしている。
「誰かそいつを押さえろ」
 田之森のその声を聞いたのと、自分が抗し難い圧倒的な力によって自由を奪われるのがほぼ同時だった。
 私の体は、シエラの体から強引に引き剥がされた。
 私の本能は、自分の自由を奪った者が何者なのかを確かめる。後で報復をするためだろう。右に左に首を捻ると、それはマナティーだった。蘭丸だった。ジオンだった。副社長だった。人生で初めて掛け値なしの友達だと思えた人間たちだった。
 カメラを担いだ田之森の背中越しに、シエラの変わりゆく様を見させられる。
 シエラの原型は、もう殆どない。もはやシエラは、人間サイズの銀色のウサギである。
 悪夢なのか、それとも、現実か。
 悪夢なら覚めてくれ。
 現実ならば、この場で私を殺せ、と神に命じる。
 笑ってしまう。
 その仕事をするはずの者は、今、目の前で異形となって舟を漕いでいるのだ。
 サクラは周到にも、テレビカメラとは別アングルから、シエラの変身の様子をスマホの動画に収めている。
 もはや手遅れかもしれないが、これ以上は一秒もここには居られない。人間どもの下品な目から、シエラを守らねば。
 視界の端にアイスピックが映った。
 シエラに習った指関節技を蘭丸の小指に極め、右手の自由を取り戻した。
「痛ってえ! このキモオタ野郎!」
 蘭丸に靴の踵で上腕を蹴られた。
 今のは蘭丸の言葉か。そうなのか。
 はいはい、わかりましたよ。
 神様。
 あなたまで、この私をお嫌いなのですね。
 結構ですよ。
 お蔭様で、嫌われるのには、慣れていますからねえ。
 蘭丸に蹴られた結果、拘束が解け、アイスピックに手が届いた。
 シエラに習った通り、背後から襲われることを未然に防ぐため、壁を背にして立つ。
「てめえら、死ぬ覚悟はできてんのか?」
 アイスピックを構える。
「俺は、今なら死ねるよ。てめえら、死ぬ覚悟はできてんのかって訊いてんだよ。答えろよ。おい、ジオン。この筋肉香水バカ。こら、副社長。この悟りペテン師。おい、群れなきゃ何もできねえ腐れ人間ども。寄ってたかって俺を殺してみろよ。得意だろ、お前らそういうのが。二三人は道連れにしてやるからさ。あの世でも群れればいいさ。オトモダチと一緒に、死ぃにぃまぁせんかあああ!」

 

(次回につづく)

シエラ〈第30話〉

Je m'appelle

「ちょっと、そこで待ってて」
 厨房まで行ってオーダーを伝えると、おしぼりを三本持ってシエラの元に急いで戻る。
 すると、他のホストがすでにシエラの応対をしていた。髭森さんも加わっているところを見ると、まずは撮影許可の話をしているようだ。
 髭森さんはその後二人から離れ、カメラを回し始めた。二人の話も一段落したらしく、同僚は私の方に顔を向けると、口の動きで「知、り、合、い?」と尋ねた。私は彼の目を見てうなずいた。
 一人になったシエラに、おしぼりを渡す。
「はい、これ。よかったら使って」
 シエラにこの手を使われることを、実はずっと恐れていたのだ。これをやられるともう逃げようがない。
「今、接客中で抜けられないんだけれど、どうする?」
「待ちます」と、低い声。
「じ、じゃあ、申し訳ないけれど、そこの椅子に座って暫く待っていてくれる?」
 フロントのソファにシエラは黙って腰かけ、おしぼりで顔や腕の雨滴を拭った。
 テーブルに戻ると、梅サワーとビールがすでに届いていた。蘭丸の前にもコーラが置かれている。
「どうしたの。遅かったじゃない」
 マナティーに問われたので、「実は」と言って、事情をありのままに話した。
「あら、それならここに連れて来なさいよ。アタシたちは全然構わないわよ。ねえ、サクラ」
「うん、全然いいよぉ」
「どうもありがとうございます。では、ご厚意に甘えさせていただきます」
「すっかり元に戻っちゃったわね」
「しまった」
「いいわよ。早く呼んで来なさいよ」
「はい」

 シエラを連れてテーブルに戻った。
「お久しぶりぃ。お元気ぃ?」
 サクラがシエラに声を掛けた。
「イイエ、元気じゃないです」
 一ミリの段差に躓いて、危うくテーブルの上にダイブしそうになる。
「あら、どうして元気じゃないの? 彼氏が優しくしてくれないのかしら」
 マナティーが流し目で私を射る。
「ハイ、優しくありません。全然逢ってくれないんです」
 シエラの視線が私に突き刺さる。
「そうなんスか。ラブラブだと思ってましたけど」
「どうして逢ってあげないのぉ、こんなにかわいいカノジョに」
 蘭丸とサクラにも波状に見据えられる。
「いや、いろいろと、ありまして……」
 髭森さんのカメラにも照準を合わされ、総身から血がピューピューと噴き出る。
「まあまあ。とりあえず乾杯しましょ。五人がせっかく集まったんスから。シエラさん、何飲みますか?」
アールグレイがいいです」
 蘭丸に救われた。
 深く息を吸って、気持ちを立て直す。
「残念だけれど、アールグレイはないよ。ノンアルコールの梅酒なんかどうかな?」
「それでいいです」
「あんたも何か飲みなさいよ」
「ありがとうございます。ぼくは、普通の梅酒をいただきます。では、エビバデー、ちょっと待ってモーメントプリーズ。チャンネルはそのままで」
「もう無理しなくていいから。早く行きなさいよ」
 手の甲で額の汗を拭って厨房に走った。
 オーダーを伝え、「大至急で」と言葉を足すと、
「ダイシキュー? ワカッタ!」と言って、アフマドは鼻の穴を広げた。
 テーブルに戻って腰を下ろすと、一分もせぬうちにアフマドがやってきた。
「コッチガ……ノン…アルコール。コッチガ……アルコール」
 アフマドは、シエラと私の前に、グラスをそれぞれ一つずつ置いた。
「それでは皆さん、大変長らくお待たせ致しました。今日は外が大荒れですが、中はもっと荒れちゃいましょう。せぇーのっ、カンパーイ」
 ようやく五人のグラスが触れ合う。
 シエラの乾杯が強過ぎて、私の梅酒は半分以上が、テーブルと床にこぼれてしまった。
 シエラはノンアルコールの梅酒を一息に飲み干した。
「シエラさん、プロの殺し屋がテキーラを飲み干すみたいでかっこいいッスねえ」
「おいしかったです。おかわりください」
 シエラは空のグラスを勢いよくテーブルの上に置いた。
 テーブルの上にこぼれた梅酒を拭きながら、心臓がキュッと縮む。「プロの殺し屋」は、ほぼ正解である。
「あんた、雪の部屋で冬眠しちゃってどうなるかと思ったわよ。変温動物なんじゃないの、あんた」
「ハイ、そうです」
「シエラちゃぁん、あの後は幽体離脱してなぁい?」
「あれからはずっと体と一緒にいます」
 背中を滝のような汗が流れる。
 この人たちをまとめて黙らせてくれる人がいたら、今月の給料の半分をあげてもよい。
「レオンはぁ、どうしてシエラちゃんに逢わないのぉ。ひどいじゃなぁい」
「いやぁ、その話はR18指定なんで、ここではちょっと無理かなぁ」
 床にこぼれた梅酒を、四つん這いになって拭きながら答える。
「シエラが死神で、そこのヒトを殺そうとしてるからですよ」
「シエちゃん!」
 シエラ以外の全員が固まった。
 シエラは逆三角形の目で私を睨んでいる。

(次回につづく)