あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第31話〉

Je m'appelle

「ハイ、オカワリ」と言ってアフマドが、シエラの前にノンアルコールの梅酒を置くと、シエラはそれをまた一気に飲み干した。
「くだらね~っ」
「シエラちゃん、死神なんだぁ。怖っわ」
「あんた、彼氏と同じ芸風になってきてるわよ。気を付けなさい」
 三人で、仏頂面したシエラをいじくり回している。どうやら冗談だと思ってくれたようで救われた。
「せっかくだから殺してもらいなさいよ、あんた」
「ああ、はい。そうですね」
 もうだめだ。心臓がもたない。アルコールでも飲んで一度落ち着こう。
 そこで、目の前のグラスにようやく口をつける。
 一口飲んで、再び心臓がキュッと縮んだ。
 これはノンアルコールだ。ということは。
 シエラを見る。
 ちょうどシエラの前にアフマドが、三杯目のグラスを置こうとしているところだった。
「ちょっとアフマド待って」
 アフマドの手から無理矢理グラスを奪い、その中身を飲んでみる。
「ナニスルカ!」
 アルコールだ。
 慌ててシエラを見る。
 もう完全に目が据わっている。
 まずい。どうまずいのか分からないが、怒涛のような不安が胸に押し寄せている。
「シエちゃん。帰ろう。ほら、立って」
 シエラの手を取ると、何かがいつもと違うような気がする。
 手の甲にこんな産毛、生えていただろうか? 産毛だけではない。サイズというか、指のバランスなどの造形というか。
 気のせいか。
 外で台風が吹き狂っていることとか、岩盤浴で一緒だった五人が場所を替えて久しぶりに集っていることとか、最底辺の学校生活を送ってきた自分が今ホストであることとか、自分に珍しくガールフレンドがいて、しかしそれが死神であることとか、やがて全国ネットで放送するためにテレビクルーが至近距離でカメラを回し続けていることとか、そんな特異な要素が密集し過ぎて、一時的に感覚を狂わされているだけなのかもしれない。
「シエちゃん。ほら、水飲んで」
 シエラの口に、水の入ったグラスを宛てがう。
 ん? 何か変だ。
 いつもより鼻の下の溝の彫りが深いような気がする。そして頬にも産毛が。
「やだぁ。なんかぁ、『雪の癒』を思い出しちゃわなぁい?」
「ほんとっスね」
「あのときと同じ顔ぶれが揃ってるだけに不吉よねぇ」
「キャーッ。シエラちゃんの頭、見てぇ」
 サクラが叫ぶ。
「何か変なものが生えてきてるよぉ。やだぁ、怖ぁい」
 全員の視線がシエラの頭に集まる。
 その光景の衝撃のあまり、私は呼吸の仕方をしばらく忘れた。
 シエラの銀色の髪の毛の隙間を割って、まさに今、猫の耳の先端のようなものが一センチばかり顔をのぞかせているのだ。
 猫耳カチューシャのことを思い出して、蘭丸の顔を見る。
「知らない、知らない、俺、知らないッスよ」
「やだっ、手も、手も、」
 そう言って、サクラが二メートルほども跳び退く。
 視線をシエラに戻すと、その手が見ている目の前で、銀色の毛を密に生やしながら獣の前肢へと変形しつつある。
 騒ぎに気付いて、店のそこかしこから、「どうした、どうした」と人が集まってくる。テレビカメラは舐めるようにシエラの変身を映している。
「撮るな! カメラを止めろ!」
 誰かが私の気持ちを代弁するかのように、かなり強い調子で怒鳴ってくれた。
 次の瞬間、群衆の視線が自分に集まっていることから、怒鳴ったのが他の誰でもない、自分自身であることを知った。
 体と理性の分離が生じた。
 今、体が、感性が、理性を権力の座から引きずり下ろして、私の中で主導権を握った。
 自分の体は田之森のカメラを押し退け、周りの野次馬どもに「見るな」と叫び、獣になりつつあるシエラを抱え上げようとしている。
「誰かそいつを押さえろ」
 田之森のその声を聞いたのと、自分が抗し難い圧倒的な力によって自由を奪われるのがほぼ同時だった。
 私の体は、シエラの体から強引に引き剥がされた。
 私の本能は、自分の自由を奪った者が何者なのかを確かめる。後で報復をするためだろう。右に左に首を捻ると、それはマナティーだった。蘭丸だった。ジオンだった。副社長だった。人生で初めて掛け値なしの友達だと思えた人間たちだった。
 カメラを担いだ田之森の背中越しに、シエラの変わりゆく様を見させられる。
 シエラの原型は、もう殆どない。もはやシエラは、人間サイズの銀色のウサギである。
 悪夢なのか、それとも、現実か。
 悪夢なら覚めてくれ。
 現実ならば、この場で私を殺せ、と神に命じる。
 笑ってしまう。
 その仕事をするはずの者は、今、目の前で異形となって舟を漕いでいるのだ。
 サクラは周到にも、テレビカメラとは別アングルから、シエラの変身の様子をスマホの動画に収めている。
 もはや手遅れかもしれないが、これ以上は一秒もここには居られない。人間どもの下品な目から、シエラを守らねば。
 視界の端にアイスピックが映った。
 シエラに習った指関節技を蘭丸の小指に極め、右手の自由を取り戻した。
「痛ってえ! このキモオタ野郎!」
 蘭丸に靴の踵で上腕を蹴られた。
 今のは蘭丸の言葉か。そうなのか。
 はいはい、わかりましたよ。
 神様。
 あなたまで、この私をお嫌いなのですね。
 結構ですよ。
 お蔭様で、嫌われるのには、慣れていますからねえ。
 蘭丸に蹴られた結果、拘束が解け、アイスピックに手が届いた。
 シエラに習った通り、背後から襲われることを未然に防ぐため、壁を背にして立つ。
「てめえら、死ぬ覚悟はできてんのか?」
 アイスピックを構える。
「俺は、今なら死ねるよ。てめえら、死ぬ覚悟はできてんのかって訊いてんだよ。答えろよ。おい、ジオン。この筋肉香水バカ。こら、副社長。この悟りペテン師。おい、群れなきゃ何もできねえ腐れ人間ども。寄ってたかって俺を殺してみろよ。得意だろ、お前らそういうのが。二三人は道連れにしてやるからさ。あの世でも群れればいいさ。オトモダチと一緒に、死ぃにぃまぁせんかあああ!」

 

(次回につづく)