あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第29話〉

Je m'appelle

 出勤前に歯を磨きながらテレビを見ていると、ワイドショーのキャスターが台風の接近を伝えていた。大型で非常に強い台風が、小笠原の近海を自転車ほどのゆっくりした速さで北に進んでいるという。台風が海の上で必死にママチャリをこいで、彼方に見える富士山を目指している姿を想像し、思わず心の中で応援してしまった。
 マンションを出ると、確かに風が心持ち強く感じられた。帰りまで空がもつと良いのだが。もし電車が止まってしまったら、帰りはもちろんタクシーを使うしかない。幸いにして、警備員だった頃と比べれば、収入は格段に上がった。ダグザでは、給料が銀行振り込みではなく現金で手渡される。密着ドキュメントが追い風となって、先月の売り上げは店で八番目だったので、給料袋がその厚みによってテーブルの上に立った。仕事が順調にいくと、そういうことが起こり得るという都市伝説的な話は、入店した初日からすでに聞かされてはいたが、現実にそれが我が身に起ころうとは、生まれながらのペシミストには想像すらできなかった。


 一八時の開店時刻を迎えても、客足はまばらである。やはり台風の影響は避けられないようだ。
 もし電車が止まったら、タクシー代はお客さんの分まで店が出すのだという。ケンちゃんの采配だそうだ。なるほどケンちゃんは豪気な人物だったのだなと納得する。岩盤浴の入り口での寸刻の邂逅でも、その人柄は確かに伝わって来た。
 空がこんなに重たい鉛の色をした日に、止めておけばよいのにと思ってしまうのだが、髭森さん率いる撮影隊はめげずに来ている。
 『密着ドキュメント 新人ホストの長い一日(前編)』は、視聴率が良かっただけではなく、その内容が局内外で高く評価されたそうで、クルーも、より一層気合いが入っているように思われる。我々は全く知らなかったのだが、髭森さんは、その世界では名の通った練達の士であるらしい。
 開店して一時間ほどで、蘭丸と私のコンビに指名が入った。指名したのは、ニューハーフのマナティーと、SM嬢のサクラである。人工雪で冬眠してしまったシエラを、蘭丸と一緒に介抱してくれた人たちだ。キャバ嬢かと思っていた若い女性が、実はSM嬢だったのだ。
「台風で干上がってると思って来てあげたのよ。あんたたち、一生感謝しなさい」
 マナティーが、ダグザの入り口で配っている団扇で顔をあおぎながら言った。
「そぉよぉ、女王様にきっちりご奉仕してよぉ」
 サクラは、たった今、人を食ってきたところかと思うほど真っ赤なルージュを引いた唇に、メンソールの煙草をくわえながら言った。
「なに言ってんスか、サクラさんMのくせに」
 蘭丸がサクラの煙草に火をつけながら言った。
 サクラは蘭丸の頭を、競技かるたの勢いで叩いた。
「あ痛てっ。サクラさん強過ぎッス」
 この二人の客は、撮影隊にとっても、貴重な客であろう。事前の撮影可否確認の段で、二人ともモザイクなしで構わないと言い放ったそうだ。カメラを担いだ髭森さんの腰の構えが、いつもと違うような気がする。
「それにしてもレオン、あんた、ホストが板についたわねぇ」
「みなさんのお蔭でぇす。イエイッ。踊れ、踊れーえ」
「バカ、踊んないわよ。あんた、元の人格どこの車両に置き忘れてきたのよ、まったく」
「でも、ホントはイケメンだったのねぇ、レオンって。岩盤浴で会った時は、死ぬほどダサかったのにぃ」
「いや~、イケメンなんて、照れるなぁ~。もっとみんなに聞こえるように選挙カー使って言ってよ~」
「ホントはバカだったのね、レオンって。岩盤浴ではお利口だと思ってたのにぃ」
「オレが見抜いてスカウトしたんスよ。すごくないッスか」
「蘭丸、そのレオンに売り上げ抜かれちゃったんでしょお。やばくなぁい?」
「サクラさん、そこ触れますか。芯外してくれないと捌きにくいッス」
「音速でナンバーエイトになった大型新人レオンでぇす。エイトマーン! 古いよ、おいっ。つまらないボケは自分で処理。マナティーさん、サクラさん、何飲みますかぁ?」
「ワタシ、梅サワー」
「アタシ、ビール飲みたぁい。喉渇いちゃったわぁ」
「梅サワー富美男とルービー大柴ですね。カシコマラジャー。レオン一号発進!」
「二号はどこにいるのよ」
 オーダーを伝えに厨房に向かう。その私を、カメラを担いだ髭森さんが軽快に追う。
 ちょうどそのとき、ドアチャイムがカランコロンと鳴って、外の強風から逃げるように身を屈めて、一人の客が入って来るのが見えた。
「いらっしゃいませー」
 思いっ切り営業スマイルを作って挨拶をすると、顔を上げた客と目が合った。
 人工笑顔が、石膏のように固まった。
「シエちゃん……」

 

(次回につづく)