あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第29話〉

Je m'appelle

 出勤前に歯を磨きながらテレビを見ていると、ワイドショーのキャスターが台風の接近を伝えていた。大型で非常に強い台風が、小笠原の近海を自転車ほどのゆっくりした速さで北に進んでいるという。台風が海の上で必死にママチャリをこいで、彼方に見える富士山を目指している姿を想像し、思わず心の中で応援してしまった。
 マンションを出ると、確かに風が心持ち強く感じられた。帰りまで空がもつと良いのだが。もし電車が止まってしまったら、帰りはもちろんタクシーを使うしかない。幸いにして、警備員だった頃と比べれば、収入は格段に上がった。ダグザでは、給料が銀行振り込みではなく現金で手渡される。密着ドキュメントが追い風となって、先月の売り上げは店で八番目だったので、給料袋がその厚みによってテーブルの上に立った。仕事が順調にいくと、そういうことが起こり得るという都市伝説的な話は、入店した初日からすでに聞かされてはいたが、現実にそれが我が身に起ころうとは、生まれながらのペシミストには想像すらできなかった。


 一八時の開店時刻を迎えても、客足はまばらである。やはり台風の影響は避けられないようだ。
 もし電車が止まったら、タクシー代はお客さんの分まで店が出すのだという。ケンちゃんの采配だそうだ。なるほどケンちゃんは豪気な人物だったのだなと納得する。岩盤浴の入り口での寸刻の邂逅でも、その人柄は確かに伝わって来た。
 空がこんなに重たい鉛の色をした日に、止めておけばよいのにと思ってしまうのだが、髭森さん率いる撮影隊はめげずに来ている。
 『密着ドキュメント 新人ホストの長い一日(前編)』は、視聴率が良かっただけではなく、その内容が局内外で高く評価されたそうで、クルーも、より一層気合いが入っているように思われる。我々は全く知らなかったのだが、髭森さんは、その世界では名の通った練達の士であるらしい。
 開店して一時間ほどで、蘭丸と私のコンビに指名が入った。指名したのは、ニューハーフのマナティーと、SM嬢のサクラである。人工雪で冬眠してしまったシエラを、蘭丸と一緒に介抱してくれた人たちだ。キャバ嬢かと思っていた若い女性が、実はSM嬢だったのだ。
「台風で干上がってると思って来てあげたのよ。あんたたち、一生感謝しなさい」
 マナティーが、ダグザの入り口で配っている団扇で顔をあおぎながら言った。
「そぉよぉ、女王様にきっちりご奉仕してよぉ」
 サクラは、たった今、人を食ってきたところかと思うほど真っ赤なルージュを引いた唇に、メンソールの煙草をくわえながら言った。
「なに言ってんスか、サクラさんMのくせに」
 蘭丸がサクラの煙草に火をつけながら言った。
 サクラは蘭丸の頭を、競技かるたの勢いで叩いた。
「あ痛てっ。サクラさん強過ぎッス」
 この二人の客は、撮影隊にとっても、貴重な客であろう。事前の撮影可否確認の段で、二人ともモザイクなしで構わないと言い放ったそうだ。カメラを担いだ髭森さんの腰の構えが、いつもと違うような気がする。
「それにしてもレオン、あんた、ホストが板についたわねぇ」
「みなさんのお蔭でぇす。イエイッ。踊れ、踊れーえ」
「バカ、踊んないわよ。あんた、元の人格どこの車両に置き忘れてきたのよ、まったく」
「でも、ホントはイケメンだったのねぇ、レオンって。岩盤浴で会った時は、死ぬほどダサかったのにぃ」
「いや~、イケメンなんて、照れるなぁ~。もっとみんなに聞こえるように選挙カー使って言ってよ~」
「ホントはバカだったのね、レオンって。岩盤浴ではお利口だと思ってたのにぃ」
「オレが見抜いてスカウトしたんスよ。すごくないッスか」
「蘭丸、そのレオンに売り上げ抜かれちゃったんでしょお。やばくなぁい?」
「サクラさん、そこ触れますか。芯外してくれないと捌きにくいッス」
「音速でナンバーエイトになった大型新人レオンでぇす。エイトマーン! 古いよ、おいっ。つまらないボケは自分で処理。マナティーさん、サクラさん、何飲みますかぁ?」
「ワタシ、梅サワー」
「アタシ、ビール飲みたぁい。喉渇いちゃったわぁ」
「梅サワー富美男とルービー大柴ですね。カシコマラジャー。レオン一号発進!」
「二号はどこにいるのよ」
 オーダーを伝えに厨房に向かう。その私を、カメラを担いだ髭森さんが軽快に追う。
 ちょうどそのとき、ドアチャイムがカランコロンと鳴って、外の強風から逃げるように身を屈めて、一人の客が入って来るのが見えた。
「いらっしゃいませー」
 思いっ切り営業スマイルを作って挨拶をすると、顔を上げた客と目が合った。
 人工笑顔が、石膏のように固まった。
「シエちゃん……」

 

(次回につづく)

シエラ〈第28話〉

Je m'appelle

「そんな丈の短いズボンは履いていなかった」
「眉毛が繋がっていたことなどない」
「髪型がカッコ悪かったのは認めるが、決して不潔だったわけではない」
 と、どれほど主張しても悉く却下され、結局、髭森さんの歪んだ先入観に合わせて、非モテ男子のコスプレをさせられる羽目になった。
 ワゴンの中に監禁されて約一時間。鏡の中にいた自分は、神無月のごとく、本物の特徴をデフォルメしたニセモノであった。神無月と異なるのは、モノマネをしているのが本人であるという点だけだ。
 蘭丸も、ジオンも、副社長までもが、髭森さんの肩を持つというのは、相変わらずの私の人望の薄さの表れである。
 採用面接のカットをカメラ二台の長回しワンテイクで済ませると、続くのは接客のシーンである。
 テーブルについた初めてのお客様であるアキラとミオに、LINEで事情を説明し、出演を依頼した。顔と声にモザイクがかかり、無料で酒を飲めると知った二人は、大乗り気でやって来た。
 オタクからホストに変身し直し、二人を出迎えた。
「キャー、ますます男前になっちゃって、お姉さん嬉しいわっあーん」
 アキラがそう言って、黒いストッキングに包まれた長い脚を私の脚に絡めると、「そこは俺のポジションだ」と、ジオンが不服を申し立てた。
 アキラ、ミオ、ジオン、私、と本人が四人揃えば、再現VTRを撮るのに脚本も打ち合わせも必要ない。理性が揮発するまで酒を飲むだけだ。ただ、あの日よりアルコールに強くなっていたため、なるほどこういう流れで桜田門を振り付きで歌うことになってしまったのか、という発見はあった。
 新人ホスト覚醒のカットはまた後日、と言って髭森さん率いる撮影隊は帰って行った。後日何の罪もなく顔面を張られねばならない者の気持ちも知らずに、業務終了後、ジオンはパンツ一丁で鏡に向かって横ビンタのフォームを入念に確認していた。
 その後、髭森さんは朝に晩にと、私の部屋にまでクルーを引き連れてやってきた。そして、何が面白いのか分からないが、明け方に就寝する様子やら、昼起床して布団の上でお客さんからのLINEをチェックする様子やらを撮っていった。高校の卒業アルバムを見つけて大はしゃぎする髭森さんの姿を見たときは、ああ、我慢して高校を卒業しておいてよかった、と感慨深かった。

 

 こうして出来上がった『密着ドキュメント 新人ホストの長い一日(前編)』が、ついにオンエアされた。
 各種メディアの乱立によって地上波の力が衰えたと言われるが、全国ネットの影響は依然大きい。オンエア以降、新人レオンへの指名が爆発的に増えた、のは良い。しかし、ヤフーのトレンドワードに「よろがいおねします」が入っていると人から聞いた時には、さすがに薄気味の悪さを感じた。
 番組から画像や映像が切り取られ、SNSで拡散されてもいるため、テレビに興味のない層にまで、ファンとアンチが勝手に広がっているようだ。(アンチ優勢だと、訊いてもいないのに蘭丸は教えてくれた。)エゴサーチをすれば、アンチからの攻撃にメンタルをやられる恐れがあるので、決してSNSには手を触れない。ジオン直伝の術を備えて立ち向かっても、その領域にはまだ、対応し切れないような気がするのだ。

 

(次回につづく)

シエラ〈第27話〉

Je m'appelle

 出勤すると、店の入口が二台のワゴンによって塞がれていた。そして、見慣れぬ人間たちが、妙に訳を知ったような顔をして、車と店との間を行き来している。
「何ですか、あの人たちは」
 まるでこっちが邪魔をしているような格好で恐縮しながら店の中に入った後、控え室にいた蘭丸にそう尋ねると、
「テレビっす」
 という、一切の飾りを省いた言葉が返ってきた。
「テレビがこの店に何の用ですか」
「ドキュメンタリー? よく分かんないけど、時々あるんスよ、こういうの」
「へぇ。警察二四時ですか」
「そういう感じじゃなくて。世間の人は、こういう業界の舞台裏みたいなのを知りたいんじゃないスかね」
「ネズミが爆走してるところとか」
「そこは絶対知られちゃダメなとこっショ」
 その時、控え室のドアが開いて、副社長が入ってきた。一呼吸遅れて、撮影スタッフの一人と思われる、顔中髭に覆われた人物が続いた。
「蘭丸。すまないが、ちょっと外してもらえるか」
「へーい」
 髭男はすみませんと言って、蘭丸に頭を下げる。
 蘭丸が出ていったドアが閉まるのを確認すると、副社長は私の目を正面から見た。
 この人は、どうやら九〇度以外の角度を知らないらしい。
「レオン、きみに話がある。少し時間を貰えるか?」
「はい」
「田之森さん、こちらがレオンです。レオン、こちらは映像制作会社でディレクターをなさっている田之森さんだ。君を取材したいとおっしゃってる」
「ぼくを、ですか。店を、ではなくて?」
「田之森と申します。よろしくお願い致します」
「あ、すみません。レオンと申します」
「失礼ですが、こちらでいちばん日が浅いのがレオンさんだと伺いまして」
「まあ、その通りですけれど、それが何か」
「実は、新人ホストの悪戦苦闘、みたいなドキュメンタリーを撮りたいと思っているんですよ」
「生憎ですが、悪戦苦闘のいちばん苦しいところは、もう乗り越えてしまいまして」
「調子に乗るな。まだ言うほどのものではないぞ」
「え。そうなんですか
「面白いな、すでに。しかも聞いた話によると、ホストになる前は、全くイケてないオタク系男子だったそうじゃないですか」
「オタクは、ここの先輩たちに勝手に押し付けられたキャラですけれど、イケてなかったのは確かです」
「ふんふんふん、そうですか、なるほどなるほど。しかし、イケてない男子の面影はもう外見上は見当たりませんね。もう少し早くお会いしたかったなぁ。ああ、タイムマシンがほしい」
 テレビ業界など、無遠慮で虚栄心に満ちた、生まれない方がましだった人間の集まりだと思っていたが、どうやら偏見だったらしい。この人は、さほど悪人ではないように思われる。
「レオン。ちょっと協力して差し上げたらどうだ?」
「はい。自分ができることなら」
「ああ、あっりがとうございますぅ。じゃあ、ちょっと時間を巻き戻す感じで、素人感丸出しの、イケてない接客なんてできませんかねぇ」
「いつでもできますよ。長年連れ添ったキャラに戻ればいいだけですから」
「え、本当ですか。うれしいな。じゃあ、メイクを落として、髪色を黒に戻して、イケてない服に着替えて、採用面接を受けるシーンから撮影を始めましょうか」
 髭森さんは控え室のドアを勢いよく開けて、外に向かって叫んだ。
「撮影スタッフ集合ーっ!」

 

(次回につづく)

 

シエラ〈第26話〉

                                 Je m'appelle

 夕闇に覆われた沼の上に、長い木の板が渡されている。その上を、パジャマ姿で一人私は歩いている。足元は暗くて、よく見えない。沼の奥には、光に包まれたドイツの古城のような建造物が見える。
 時々、木の板を向こうから歩いてくる人とすれ違う。その都度私は冷たい目で睨まれるようだ。パジャマが彼らを不快にさせるのか。私は平静を装い「失礼」などと言いながら、板の端の方に身を寄せる。
 果てしなく続くかと思われた板を渡り切ると、そこには、徒に巨大で傲然としたパチンコ屋が聳え立つ。私は何の感慨も持たぬまま、光に吸い寄せられるようにして、その店内に入る。天井は、霞んで見えぬほど高く、タバコの煙の漂う空間には、バロック音楽が無機的に流れている。床の上には、沼から上がって来たものと思われる橙色のカエルがそこかしこを歩いている。中には随分尻尾の長いものもいる。間違えて沼から上がってしまったのであろう灰緑色のオタマジャクシが一匹、白い腹を上に見せて死んでいる。店員は皆、中世ヨーロッパの貴族風の衣装に身を包んでいる。どうせ貸衣装だろうと、パジャマ姿の私は負け惜しみによって自己防衛を図る。母の形見である財布から、よれた千円札を一枚抜き取って、店員に「玉を買いたい」と言ったときに、それが止まれであることに気が付いた。「その節はどうも」という自分の声が、相手の機嫌を取るための高めのトーンになっていることに、己の弱さを再確認する。
 止まれは眩しそうに私を一瞥すると、顎で玉の販売機の所在を示した。それは滑稽なほど近くにあった。止まれは大仰に嘆息して私から離れると、他の店員に耳打ちをし、こちらを見てニヤニヤと笑った。止まれの傍らに立っているのは副社長であった。
 販売機に、くたびれた千円札を投入すると、玉がわずかに三個だけ転がり出た。いくらなんでも千円で玉が三つだけという法はなかろうと思い、副社長に機械の故障ではないかと訴えたところ、文句があるのなら出て行けと低い声で言われた。
 仕方なく、三個の玉を持って、人の座っていない台の中から、特に訳もなく一つを選び、椅子の上にカエルがいないことを確認して用心深く腰かけた。ふと隣を見ると母が座っていた。母もパジャマを着ていたので、少し安心した。私は、「ほら、母さんの財布」と言って、母にそれを見せた。母は、「ああ」と言ってそれに土色の手を伸ばした。母の声は非常に弱弱しかった。体も痩せて、息をすることさえつらそうであった。「母さん、パチンコなんかやめて帰ろう」と私は言ったが、母は動くことを拒んだ。その割にパチンコをするわけでもなく、ただ機械と向き合って乾いた咳をしている。「そう言えばお前、ここには立派なお風呂もあるらしいよ」と、母が咳の合間に、さも大層なことのように言う。死んだ母に入浴する体力はもうなかろうと思ったが、頭ごなしに否定するのも気の毒に思い、「そう。それは魅力的だね」とだけ言った。そして、三つの玉を投入口に入れ、「母さん、一緒にやってみようよ」と、屈託のない声を作って言った。ジオンに学んだ処世術を、妙なところで使ってしまった。母は私とよく似た歯並びを見せて、顔の半分だけで笑う。母の痩せて乾燥した手に、私の手を重ねて玉を弾くと、三つのうち二つまでは、盤面の一番下にあるつまらない穴に吸い込まれていった。残りの一つだけが、盤面の四時半の位置にある、小さなポケットに入った。チーンッと、当たりを思わせる音が鳴ったことに、微かな喜びを感じる。母の反応を確認すべく横を見ると、吐息を揺らす気配もなく、相変わらず目蓋すら重そうにしている。ひどい加齢臭と死体の腐敗臭が鼻の奥を突く。「やっぱり母さん帰ろうよ」と私は焦り気味に言った。死んだ人間にやはりパチンコは無理だった。母の命は尽きているのだと改めて思った。それにしても、人は死んだ後も多少なら動けるし、喋れるものなのだな。母の死には、やましい思いが付きまとう。「母さん、ごめんね。死ぬときにそばにいてあげられなくて」そう言いながら、私は子供のようにわんわんと泣いた。母は何も言わない。そして、狐の目で私を見る。ああ、やはり母は怒っていたのだ。清算のつもりで流した不純な涙は行き場を失った。先程のチーンッという音から文脈を見失うほど遅れて、玉の出るはずの窪んだところから、明らかに使用済みの歯間ブラシが三本滑るように落ちてきた。こんなものにまで地球の引力が働いているのかと、その勤勉さに感心した。

 母はもう、一本の巨大な鰹節になっていた。本格的に死んだのだと私は理解した。私は三本の歯間ブラシを指先でつまんで臭いを嗅ぎ、その行為の意味のなさを自虐的に笑った。三本の歯間ブラシを線香のように立てようとしたが立たなかったので、鰹節の上に横たえた。そして、母を置き去りにすることの後ろめたさを、もう鰹節になったのだからという理論武装によって押さえ込み、パチンコ屋を出た。いや、出ようとした。出ようとしたのだが、足が石臼のように固まって動けない。私の意志は、一億分の一も自分の足に伝わらない。それでも私は重たい足を引きずるようにして少しずつ前に進んだ。

 途方もなく長い時間をかけて店の外に出ると、来たときに沼だった場所は、すでに砂漠式の駐車場になっていた。何台かの車が、砂の中に、絶望を通過した余裕すら漂わせて埋まっている。中にはまだ悟りを開けずにアクセルを踏む者もあるが、当然その場で無駄に車輪を回転させ、砂を撒き散らすのみで終わる。
 砂漠を照らす外灯が不必要に明るくて、その光を求めてカブトムシやら、クワガタやらが群れている。それらに交じって、スズメバチやタランチュラなどの危険な生物もいたので、近寄ることをためらっていると、玄関のチャイムが鳴った。

 昨夜はパジャマに着替える気力も残っていなかったようだ。タバコと酒の臭いのしみついた衣装を着たままの体を持ち上げ、天井の蛍光灯がビカビカと照らす室内を、よろけながら三足ほど歩いてインターホンに出た。
「はい、どちらさまですか」
 どちらさまですか、とは恐ろしく無意味な問いかけであることは分かっていた。
「シエラです」
 もう四度目か。いや、五度目になるか。
「勘弁して。もうきみには逢わないって何度言ったらわかるの」
 そう言い捨てて、受話器をフックに戻した。
 しかし、これもまた無意味な行為であると分かっている。
 ―― そこのヒト。あなたはもう完全に包囲されています。無駄な抵抗は止めて出て来なさい。あなたのお母さんは、泣いてますよ。
 これだ。この通りだ。テレパシーで心に直接話しかけるというこの飛び道具は、耳を塞いでも布団をかぶっても防げない。
 ―― ちょっと、シエちゃん。人の夢を覗き見するの、お願いだから止めてくれないかな。
 ―― お母さんを勝手に殺しちゃって、いけないんだ。それにお母さん、まだそんなお年でもないですよね。
 ―― うるさいな。夢は、そんなに現実に忠実じゃなくてもいいんだよ。
 LINEを削除しようが、インターホンを破壊しようが、シエラにこの手が残っている限り、私は永遠にこの死神から逃れられない。

                           (次回につづく)

シエラ〈第25話〉

                                 Je m'appelle

 葬儀が終わると、私の顔色が故人よりも悪かったらしく、それを見た人々に一様に心配され、急遽その日のシフトから外してもらった。

 

 用なしになった衣装を持って、なんとか自宅の最寄り駅に辿り着くと、駅前のマツキヨに寄り、液キャベを買って飲んだ。本来徒歩九分の道のりを二〇分以上かけてようやくマンションに到着し、エレベーターに乗って四階のボタンを押した。数秒間のエレベーターの上昇さえ三半規管に影響し、気持ちが悪くなる。

 エレベーターを降りて自分の部屋に向かうと、ドアの前に人影が見えた。

 私の部屋のドアに腰の一点で体重を預け、体を「く」の字にして下を向いていたその人影は、私の足音に気が付くと、こちらを向いた。サーモンピンクのタンクトップワンピースに真珠のネックレスをし、ライムグリーンの厚底サンダルを履いたそれは、シエラであった。

「お帰りなさい」

「どうしてここにいるの?」

「付き合ってるからです。待ちくたびれました。早くお部屋開けてください」

「冗談は、やめてくれないかな」

 衣装の入ったガーメントバッグを、床に叩きつけた。

「どうしたんですか。なんだか、いつもと違いますよ」

「だろうね。今ぼくがどこに行ってきたか、分かる?」

「分かりません。どこに行ってきたんですか?」

「ケンちゃんの葬儀だよ」

「ケンちゃん?」

岩盤浴の入り口で会った人。きみが、前に付き合っていた人」

「ああ、あのケンちゃんですか。知り合いだったんですか?」

「うん。ぼくも今日知ったんだけれど、うちの店の社長だったんだよ」

「ウケる。やっぱり地球は狭いですね。ケンちゃん死んじゃったんですか?」

「うん」

「へぇー、早かったですね。もう少し生きるかと思ってました」

「ちょっと、人が一人死んだのに、それだけなの?」

「それだけって、どういうことですか?」

「あなたには、人の死を、悼む感情って、ないの?」

「イタム? シエラの知らない言葉です。意味を教えてください」

「人の死を、惜しんで、悲しむっていう意味だよ」

「ふーん。ヒマですね、人間は」

「暇って、どういうこと?」

「生まれたら死ぬに決まってるじゃないですか。それをいちいち悲しむなんて、他にすることがないからなのかなぁって思いました」

「暇つぶしに悲しんでいるわけじゃないよ。信じられないな。もうこうなったら、はっきり言わせてもらう」

「なんですか。なんだか緊張しますね」

「私は、もう、あなたとは逢わない」

「ヤバっ。どうしてですか?」

「理由を言う必要がある? あなた自身がいちばんよく分かっていると思うんだけれど」

「分かりません。教えてください」

「分からない?」

「ハイ」

「それなら、仕方がないから説明するよ」

「短めにお願いします」

「牛の展覧会で会った変な声の警備員、分かるよね」

「分かりますよ。変な声だから耳の奥が痒くなりました」

「あの人も死んだの、知っているでしょう?」

「知ってますよ。シエラのお仕事ですから」

「やっぱり……」

「ていうか、あのお仕事注文したの、そこのヒトじゃないですか」

 そう言って、シエラは私を指さした。

「え、ぼく?」

「そうですよ」

「ぼくがそんなこと注文するわけ……。あっ。もしかして……、ぼくの心の声を、キャッチして、それで、注文を受けたと、思っちゃったの?」

 確かあの時、心の中で止まれを激しく呪ったような気がする、あまりに腹が立っていたから。

 

 ―― 魂の腐敗した人間である。

 存在無価値生命と言ってもよい。

       

 ―― 死神は

 このような人間からこそ

 命を奪うべきである。

 

「そうですよ。電波の強さ、まじヤバかったですよ。だから早くしないと後で怒られると思って、シエラ大急ぎでお仕事したんじゃないですか」

「怒るわけないでしょう。もう、本当かよ。参ったな。これじゃ、ぼくが人を殺したみたいじゃないか」

 頭を掻きむしる爪の音が、頭蓋骨を通して鼓膜に響く。

「あのね、人間はテレパシーで仕事を発注したりしないの、普通。心の中で言ったことがいちいち効力を発揮したら、人間社会は一瞬で破綻するから。人間社会で意味を持つのは、声にして言った言葉と、文字にした言葉だけなの」

「ふーん、随分めんどくさいんですね、人間っていうのは」

「ケンちゃんが死んだのも、きみの仕業でしょ」

「そうですね、最近は全然会ってませんでしたけど。だいぶ命は縮んでたと思います」

「やっぱり」

「もうシエラに逢わないっていう話と、ケンちゃんの話と、どう関係があるんですか?」

「関係大ありだよ。死ぬのが怖いんだよ、普通に」

「ええっ、ホントですか? ダサっ」

「ダサくて結構だよ。あと、もう一つ言ってしまうけれど、ぼくは生きるのが楽しくなっちゃったの。これは自分でも驚きだけれど」

「ええっ。ウザっ。キモっ。やめてください。全然似合ってませんよ、そのセリフ」

「大きなお世話です。だからあなたとはもう二度と逢いません。終わり」

 止まれの死以来ずっと心の中に溜めていた言葉を、全て吐き出した。

「あなたとか、キっショ。どうして突然、生きるのが楽しくなっちゃったんですか?」

「ダグザで人と仲良くなる方法をマスターしたんだよ」

「控え目に言って、バカなんですか? それは、前にも言ったじゃないですか。人間が生きるために予め組み込まれてるただのプログラムだって」

「もう、またそれか。何、プログラムって」

「要するに、生き物は生きて殖える、ただそれだけのために存在してるんですよ。分かりますか、それは」

「だけっていうのは抵抗があるけれど。およその意味は分かるよ」

「だけ、なんです。でも、生きることも、殖えることも、大変なエネルギーを使う大仕事なんですよ。分かるでしょ、これは」

「うん、それは分かる」

「だから神は、生きるために必要なことと、殖えるために必要なことをする時には、それに成功すると脳内で快感物質が分泌するようにプログラミングしたんですよ。分かりますか?」

「ちょっと、考えてもいい?」

「いいですよ」

 その時、隣の部屋のドアが開いて、人が出てきた。そして、ドアノブに手を掛けたまま、私たちをじろりと見た。隣に住んでいるのに、まともに顔を見たのは初めてだ。日本に百万人くらいは居そうな、芸のない顔をした中年男である。

「ねえ、あなたがた、いい加減にしてもらえませんかね。さっきから何時間そうやって外でくっちゃべってるんですか。迷惑なんですよ」

「あ、ああ。すみませんでした」

 中年男はものすごい目で私たちを睨んでから、自分の部屋に引っ込んだ。

「怒られちゃいましたね」

「うん。そういうわけだから、悪いけれど帰って」

 先程床に投げ捨てたバッグを拾い上げて、埃を払った。

「きみのことは好きだけど、ぼくは、もっと生きたい。命は、他の人からもらってよ」

「えっ。それは困ります。オジサンがいいんです」

「なんでよ。キスもしたくない、名前も呼びたくない、そんな男でしょ、ぼくは。人間は何十億人もいるんだから、別にぼくじゃなくたっていいでしょう」

「いやです。そこのヒトがいいんです」

「もう、意味が分からないよ。そもそもあの変な声の警備員のことは、名前で呼んでいたの?」

「呼びましたよ、何十回も」

「ふーん。キ、キスは、したの?」

「たくさんしましたよ」

「ふ、ふーん。その、先のことは?」

「その先って何ですか?」

「裸で、抱き合うとか。セ、セックスとか」

「ハイ、しましたよ。一日に何回もしたから疲れちゃいました」

「もういいよ。ちょっとはきみからも好かれているのかな、なんて思っていた自分が馬鹿だったよ。やっぱり、嫌われていたんだな」

「嫌われるとかいうのは、ちょっと違います。大嫌いですけど」

「え。そんなに嫌われてはいないってこと?」

「まぁ、そうです。大嫌いですけど」

「じゃあ、ぼくと、セ、セ、セックス、してくれる?」

 その時、また隣の部屋のドアが開いた。

「てめえら、いい加減にしろ! ぶっ殺すぞ、コラァ!」

                              (次回につづく)

シエラ〈第24話〉

                                 Je m'appelle

 朝からセミがうるさい。

 二十一世紀の東京の暑さは、百年前のクアラルンプールを上回っているのではないかと思う。地球温暖化はもはや歯止めが利かない。今この瞬間にも氷河が融解しているのだろう。

 暑くてだるくて、今日は何だか腹の調子も良くないので、動きたくない。変温動物のシエラには悪いが、夏の廃止を本気で主張したい。季節は春秋冬の三つだけにしてもらえないものか。寝床でセミの大合唱を聞きながら、エアコンに向けてリモコンのスイッチを押す。この行動が温暖化を助長すると分かってはいながら、それを止められないのが人間の業の深さである。

 シエラが頭にかぶっていた紫色のパンツが、エアコンの風を受けて静かに揺れ始めた。

 紫と言えば、袱紗と数珠はどこにしまっただろう。

 今日は、葬儀に出ねばならない。ダグザの社長が亡くなったのだ。まだ一度も会ったことがないというのに。ジオンの話によると、豪快できさくな人だったらしい。

 葬儀場は随分不便なところにあるというので、昨夜みんなで話し合い、最寄りの駅で落ち合って、タクシーに相乗りして行こうということになった。社長が亡くなったのだから、ダグザは臨時休業かと思いきや、葬儀の後、シフトに入っている者は、タクシーで店に急行して勤務するのだという。私もシフトに入っていたので、衣装を持って行かねばならない。

 

 駅の改札に着くと、すでに知っている顔がいくつか見えた。厨房で働いているマレーシア人のアフマドまで来ていた。社長の人望の厚さが窺える。

 皆、喪服を着て黒いネクタイを締めているが、眉は細いし、髪は金持ちの子のクレヨンほどにカラーバリエーションが豊富なので、一般の人たちは皆不審そうな顔をして、横目でチラチラと窺いながら一団の脇を通過する。

「では、三四人くらいずつに分かれて、そろそろ行きましょうか。運転手さんに斎場の名前を言えば通じるみたいです」

 副社長の指示に従って、集団が動き始める。

「フクシャチョウ、ナニイッタ?」

 歩きながらアフマドが尋ねてきた。

「一緒に、タクシーに乗って、行きましょう」

 ジェスチャーを交えて、一音一音ゆっくりと発音してアフマドに伝えた。

「オーケー」と言って黄色いすきっ歯を見せて笑い、アフマドは私の肩を叩いた。

 結局、ジオンとアフマドと私の三人で、一台のタクシーに乗った。「失礼ですがどういうご職業ですか」とタクシーの運転手に尋ねられると、ジオンは「弁護士です」とつまらない嘘をついた。それを本気にしたアフマドから質問攻めにされ、ジオンが適当な嘘を返しているうちに、タクシーは葬儀場に到着した。

 葬儀場のスタッフの指示に従い、エレベーターで二階に上がる。そのフロアには、すでに大勢の参列者がいて、開場を待っていた。アフマドは、周りのホストをつかまえては、その一人ひとりに、ジオンが弁護士である旨を根気強く伝えている。

 やがて式場のドアが開かれ、葬儀会社のスタッフの誘導に従って、親族から順に中へと入り始めた。私たちは、前の方にいると主役よりも目立ってしまうので、最後に入ることにする。

 式場に入ると、圧倒的な存在感を持った祭壇が、視界のほぼ全域を覆った。そして、祭壇の中央に設置された故人の遺影を見た時、全身の毛穴が一斉に開くとともに、脳が委縮するのを感じた。

「ケンちゃん……」

「なんだおまえ、社長のこと知らねえって言ってたのに」

 ジオンが私の顔を横目で窺いながら小声で言った。

「知らないと思っていましたが、偶然知っていました。歌舞伎町の岩盤浴で、かする程度に」

「そうか。社長は岩盤浴が好きだったからなぁ」

「私がダグザで働き始めたのは、それより後です。あの方が社長だったとは全く……」

 前の席に座っていた蘭丸が、後ろに身を捩って、こちらを向いた。

「あの時レオンさん、社長に会ってたんスか」

「はい。蘭丸さんに会う少し前のことです」

「レオンさんのカノジョが凍って倒れた時ッスね」

 そう。分かっている。

 またシエラの仕業だ。

 シエラと関係のあった人たちが、次々と死んでいく。

 僧侶の読経が始まった。

 止まれの腐ったサッチモの声が、脳裏によみがえる。

 ニコチン含有率一〇〇パーセントの息の臭いが、線香の匂いと絡み合う。

 アロハを着たケンちゃんの、強面なのに人懐っこい笑顔が思い出される。

 しかし、妙だ。

 あの時ケンちゃんは確か、五年ほど寿命が縮まった、怖いからシエラにはもう逢わない、と言っていた。それならば、このタイミングで亡くなるというのはどういうことだろう。元々ケンちゃんは、寿命が短かったということなのだろうか。

 止まれも、シエラに逢い始めてから、わずか三週間程で死んでしまった。

 どうも腑に落ちない。

 もしかして、一回のデートで呼吸五八八万二三五三回分寿命が縮まるというのは、嘘なのではないか。本当はもっと大幅に縮まっているのかもしれない。もしそうだとすると、実は私の死も、知らぬうちに目の前に迫ってきているのかもしれない。そう考えると、線香の匂いに突然胸が悪くなり、猛烈な吐き気に襲われた。

 焼香の順番が寸前まで近付いてきていたが、急いで式場を出てトイレに走った。そして、いちばん近い個室に駆け込むと、便器に覆いかぶさるようにして嘔吐した。暑いのに、全身に鳥肌が立った。吐く時に、ゆるい便が少し洩れてパンツを汚してしまった。幸いズボンは汚れずに済んだので、パンツを脱いで直接ズボンを履き、体を引きずるようにして席に戻った。

 ジオンに「どうした」と問われ「何でもありません」と答えたが、それは決して場に対して気を遣ったからではなく、とても事態を説明できるような情緒ではなかったからである。

 目の前の祭壇に自分自身の遺影の飾られる光景が、網膜の裏に映し出されていた。視界が歪んで、もうそれが幻なのか現実なのかが分からない。

                              (次回につづく)

シエラ〈第23話〉

                                 Je m'appelle

「シエちゃん?」

「ハイ」

「ちょっと待ってて。今、行くから」

 牛の夜のことを考えれば、起こり得ることだった。念の存在を捉えることのできるシエラにとっては、私の居場所など、GPSを使わなくとも簡単に突き止められるに違いない。

 裸足のままスニーカーを踏み、鍵を解除してドアを開ける。

 ドアの向こうには、ライトイエローの半袖膝上丈ワンピースを着て、茶色のウェッジソールサンダルを履いたシエラが、白いレースをあしらった籠バッグを両手で体の前に持ち、いつもの「w」字の口で、視線を斜めに落とし気味にして立っていた。

「シエちゃん」

「こんにちは」

「よく分かったね、ここ」

「路地で少し迷いました」

「LINE、返信しなくてごめん」

 シエラは下を向いたまま、唇をぎゅっと結んでいる。

 やがて顔を上げたシエラの、メガネの向こうの瞳が、潤んで少し揺れているように見えた。

 シエラは「ハイ、これ」と言って、なぜか私に籠バッグを預ける。

 と、次の瞬間、

「エイっ」と叫び、私の睾丸を両手で鷲掴みにしてきた。

「痛たたたた。やめて。痛い、痛い、痛い」

「痛いように握ってるんです」

「やめ、やめ、やめて。痛たたたた」

 シエラは口を「v」の字にして、私の顔を見上げながら睾丸を握り続ける。

 潤んだ瞳は何だったんだ。

 睾丸は骨にも筋肉にも守られていない、剥き出しの臓器だ。たとえ攻撃可能でも攻撃しないという紳士協定は、地球外では無効だったか。

 私はその掟破りの両腕の働きを封じるために、籠バッグを持たされたまま、外側から挟み込むようにしてシエラを抱き寄せ、「く」の字に腰を引いた。

 シエラはしばらくバタバタと抵抗していたが、やがて観念して力を抜いた。

 睾丸も、鷲の爪から解放されて、ようやく一息ついた。

 シエラは、私の腕に抱かれたまま、ずれたメガネを私のアゴを使って直した。

 ライムの吐息を首筋に感ずる。

 ああ、この感覚、懐かしい。

「シエちゃん」

「何ですか」

「大好きだよ」

「シエラは、大嫌いです」

 私は両腕に再び力を込めた。

「このまま抱き締めて、殺してもいい?」

「やれるものなら、やってみてください」

 私は死神を抱いていた腕を解いて、籠バッグを持ち主の手に返すと、その肩を両の掌で包んだ。

 メガネの向こうの濡れた瞳に、表面張力を感じる。

 唇の光沢が眩しく誘う。

 自分の口内では、唾液が正直に分泌している。

 先程攻撃を受けた箇所も、他意なく反応を始める。

 理性とは何だろう。

 もう宇宙の法則に逆らうのは、止めにしようか。

 そう思って、本能の命ずる運動を始めたところ、目標物となっていた光沢が、急に軌道から外れた。

「ダメです」

 宇宙の力が、突然解除された。

「ぼくのこと、嫌いなの?」

「さっき言ったじゃないですか、大嫌いって。キスはしません」

「どうして?」

「どうしてもです」 

「どうしてもって……」

 いきなり行く手を塞がれたため、愛おしさがエネルギーを持て余して、別の感情に変質した。

「そう言えばさ、前から思っていたんだけれど、シエちゃんて、ぼくの名前を一度も呼んでくれたことがないよね。いつも、オジサンとか、そこのヒトとか言って。ぼくは、名前で呼んでもらいたいのに」

 見苦しいと思いながらも、以前から抱いていた不満が、つい漏れ出てしまった。

「それも、ダメです」

「どうして? キスをしたくないというのならまだ分かるけれど、名前を呼んで欲しいって言っているだけなんだよ、ただ」

「キスと同じです。名前もダメです」

岩盤浴で、ケンちゃんて人のことは、名前で呼んでいたでしょう」

「そんなふうに言われても、困ります。名前は、呼べません」

 その冷たい頬を、平熱三十六度九分の両手で包み、不発に終わったエネルギーの全てを目の筋肉に込めて、神の造形の如きものを網膜に焼き付ける。

「お部屋に、入れてくれないんですか?」

「あ、ああ。ごめん。いいよ。どうぞ、入って」

「ありがとうございます」

 シエラを部屋の中へと招いた。

 自分以外の者がこの空間に入るのは、合鍵を置いて出て行ったあの女性以来だ。

「汚いお部屋ですね」

 あの女性が残していったスリッパを履いたシエラは、単身者用の小さな冷蔵庫の上に籠バッグを置いた後、万年床を眺めながら言った。

「シエちゃん、少しは嘘を覚えてね」

 シエラは文字通り足の踏み場もない部屋の中を、珍しそうに観察している。

 私はキッチンで紅茶を淹れるための準備をする。コンロに火をつけてお湯を沸かし、いつかこんな日が来るかもしれないと思って用意しておいたアールグレイを、棚の奥から取り出す。

 シエラを見ると、部屋干しした洗濯物の匂いを嗅いでいる。

「やめて。そんなお姫様みたいな顔して、変態オヤジのまねをするのは」

「つまんない。あんまり臭くないです」

「あんまりって何よ、もう……」

 窓から光が差して、洗濯バサミに吊るされた靴下の匂いを嗅ぐシエラの姿がシルエットになっている。

 ああ、幸せとは、こういうことなのかもしれない。

 しかし、シエラには、言わねばならないことがある。

「紅茶を淹れたよ。こっちに来て一緒に飲もう」

「ハイ、ありがとうございます」

 パープルのボクサーパンツをベレー帽のように斜めにかぶって、シエラはダイニングの椅子に澄ました顔で座った。

「また。やめて」

 シエラの頭から自分のパンツを取り戻そうとしたが、当然のごとくシエラは抵抗した。にわかにパンツの争奪戦が勃発した。両者一歩も譲らず、古今未曽有の下らない競り合いは、長期戦にもつれ込んだ。

「しつこいですよっ」

 パンツを引っ張りながらシエラが言った。

「どっちのセリフだよっ、まったく」

 パンツを握るシエラの両手の指を一本ずつ開かせ、やっとの思いで股を覆う布きれを奪取した。

「わ。アールグレイですね、これ」

「そうだよ」

「シエラも大好きなんですよ、アールグレイ

「知っているよ」

「え! 知ってるんですか。さてはシエラのストーカーですね」

「否定はできないね。シエちゃんのことが好きなのは確かだから」

「ウザっ。キモっ。ミルクはありますか?」

「あるよ。はい、これ」

「ありがとうございます。ウ~ン、いい香り。ミルクを入れてっと。いっただっきまーす」

「どうぞ。このクッキーもよかったら食べてみて。ぼくが焼いたんだよ」

 ダグザでの話題の一つにでもなればと思って、焼いてみたクッキーだった。

「ヤバっ。泡吹いて死にませんか?」

「失礼だね。心配なら食べていただかなくて結構です」

「ああ、食べます、食べます。今のはレンタルボディーから勝手に出たセリフです。シエラの胃袋は、わりかし丈夫ですから」

「それも知っているよ」

 シエラは「マズい、マズい」と言いながら、九〇枚ほどあったクッキーをペロリと平らげた。相変わらずの食欲だ。食べたものは、この細い体の一体どこへ行ってしまうのだろう。そんなことを考えていたら、なぜかこちらが便意を催してきた。

「ごめん。ちょっとトイレに行ってくるね」

「トイレですか。じゃあシエラも行きます」

「シエちゃんも行きたかったの? じゃあ、お先にどうぞ」

「そうじゃありません。シエラは何も出ませんから」

「え? じゃあ、どういうこと」

「出るとこ見たいんです。見せてください」

「ええっ。冗談でしょ?」

「冗談なんかシエラ生まれてから一度も言ったことありません。おしっこですか。うんこですか」

「たぶん両方だよ」

「じゃあダブルプレーですね」

「いつどこで覚えたの、その言葉は」

「忘れました。早く行きましょ、トイレ」

「本気なの? 大変な変態だな、シエちゃんは」

「変態じゃありません。ただ男の人がおしっこやうんこをしているところを、瞬きもせずに至近距離から見たいだけです」

「人間の世界では、それを変態というんだよ」

「そこはどっちでもいいです。早く行きましょうよ」

 シエラは私の肘を両手で引っ張った。

「じゃあ、我慢するよ」

「え。どうしてですか?」

「どうしてって当たり前でしょう。普通そういうのは、人に見せないものなの」

「本気で言ってるんですか?」

「うん」

「考え直すなら今ですよ」

「考え直しても変わらないよ」

「いつからそんなにつまらないヒトになっちゃったんですか。見損ないました。もう帰ります」

 シエラは冷蔵庫の上に置いてあった籠バッグを抱えると、スタスタと玄関に向かった。

「え。帰っちゃうの? そんな理由で?」

 椅子から立ち上がってシエラを追った。

「もう、シエラのこと嫌いになったんでしょ。LINEも無視するし。ちょームカつく。せっかく殺してあげようと思って来たのに」

「殺してあげるって……」

「一〇〇歳まででも、一億歳まででも勝手に生きてください。もう知りません。さよなら」

 サンダルを爪先で履いてドアを開けようとするシエラの手首を掴んで、どうにか突進を止めた。

「ちょっと待ってよ。いろいろと話したいことがあるんだよ。あの警備員のこととか、ダグザのこととか」

「えっ……」

 吐息のように一声漏らすと、シエラは急に脱力した。そして、人殺しの現場を目撃してしまったピザ配達人のような顔をして振り返ると、私の顔を奥まで見つめた。

「思い出しちゃったんですか?」

「え。何を」

「思い出して、ないんですか?」

「だから、何を」

「シエラの、ことを」

「何を言っているの。思い出すも何も、シエちゃんのことを忘れるわけがないでしょ。どうしちゃったの、シエちゃん」

「……。なんでもないです。シエラの勘違いだったみたいです。ダグザって何ですか?」

「ああ、聞いてくれる? じゃあ、テーブルに戻ろうよ」

「ハイ、戻りましょう」

 シエラはダイニングに戻ると、籠バッグを再び冷蔵庫の上に置いて、私の腕を取った。

「じゃあ、話の前に二人でトイレに行きましょ」

「ええっ、結局そこに戻るの。今の騒ぎで止まっちゃったよ。もうしたくないよ」

「心配ないです。トイレで座ればきっと出ますよ。行きましょ。ほら、早く、早く」

 

 結局、トイレまで連行され、親にしか見せたことのない行為の一部始終を、丹念に観察された。まだキスもしたことがないというのに、飛躍し過ぎなのではなかろうか。しかも飛躍の角度が新し過ぎる。しかしシエラは、「わー」とか「きゃー」とか「おっ」とか「へぇ~」とか言いながら、大いに堪能したようであった。

 止まれの件について訊こうとしたが、結局訊けなかった。

 今後シエラとのデートを控えたい、という話もできなかった。

 ホストになってしまったことを報告したら、案の定「ウケる」と言われた。

 今日も呼吸五八八万二三五三回分、命が縮まったようである。これでは押し売り同然ではないか。

 「また来ますね」と言うので、「二度と来ないで」とこたえて見送った。

                              (次回につづく)