あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第2話〉

                                Je m'appelle

 外はもう薄暮だった。梅雨の晴れ間が人を呼び寄せるのだろうか、日本有数の繁華街は、平日だというのに人でごった返している。

「あの、シエちゃんって呼んでもいいですか?」

「いいですよ」

「シエちゃん」

「ハイ」

 大きな薄茶色の瞳が、アーチ橋になる。橋の下には涙袋の海が広がっている。できることなら、全裸でその海を泳ぎたい。

「大好きです」

「早過ぎますよ」

「シエちゃんが本当に死神なら、殺されてみたい気もします」

「本当に死神ですから殺してあげますよ。手、つないでみます?」

「え。手、ですか」

「いやですか?」

「いやなんて、とんでもない。お願いします」

 よし。自己催眠で手の発汗を抑えよう。とにかく手から意識を遠ざければよいのだ。

 ここは果てしなく広がる草原。

 大の字に寝転んで草の露に濡れた頬を、

 遠くの山の上からやってきた涼風が、やさしく撫でる。

 頬を、涼風が。

 だめだ。どうしても生温い油が掌を撫でてしまう。

 もう、いい、嫌われたって。嫌われるのは得意だったはずだ。

 思い切って、小さな手を、握った。

 フランス人形の稠密な手肌の感触は、呼吸何百回分かの命と交換する価値は十分にあると思った。

「ワタシの手、冷たくないですか?」

「冷たいと言えば冷たいけれど、ぼくの体温が高めなので、むしろ気持ちが良いくらいです。それより、ぼくの手、湿っていてすみません。掌に汗をかきやすい体質なんです」

「そうなんですか。ちっとも気が付きませんでした」

 気が付かないはずはない。

 なんてことだ。

 こんな女性と、出逢えるなんて。

 そのとき、一陣の風が、彼女の匂いを運んで頬を撫でた。

 ああ、風。ここは、草原。

 人の波の一部となった二人は、知らない人からは恋人のように見えているのであろうか。もしそうだとしたら、勘違いしたその人に、高原牛乳を一本おごってあげたいと思う。

 天にも昇らんばかりの幸福感と共に、ほんの二〇分前に知り合った女性と手をつないで街を歩くことに対するちょっとした背徳感もあって、未知の気分に、顔の表情筋の動かし方が分からなくなる。いまだ目の前の現実、自分の手の中に体温の異なる小さな手のある幸せが、胸に収まらない。

 

 カラオケの個室のドアを開ける自分の手が、義手かと思われた。フランス人形と二人きりで小さな時間と空間を共有しているという事実が、三半規管を無闇に揺さぶる。平衡感覚を取り戻すことは到底不可能だろうと思ったので、脳が浮遊するような感覚に身を任せて、言葉を湧き出るままに放出する。

「シエちゃん。ぼく幸せ過ぎて、帰り道で馬に撥ねられて死ぬと思います」

「ヤダ、まだ死なないでください。それに歌舞伎町に馬はいませんよ」

「そうですね。なんだか、のどが乾いたな。せっかくだから何か頼みましょうか」 

「この機械で注文するみたいですよ」

「そっか、これでオーダーできるんだ。便利だね。飲み物は……と、これか。じゃあ、ぼくは生ビールにしようかな。シエちゃんは?」

「ワタシはアールグレイを」

「アール…、え?」

「紅茶です」

「アルコールは、飲まないんですか?」

「ワタシ、お酒飲めないんです。飲むと、変身しちゃうんです」

「へえ、そうなんですか。変身するところ、見てみたい気もしますけれど。食べ物は?」

「ハイ、いただきます」

「何にしますか?」

「キュウリを五本」

「五本?」

「ハイ。ワタシ、キュウリ大好きなんです」

「はあ」

「お肉もいただいていいですか?」

「どうぞ。何にしますか? 肉料理もいろいろあるみたい」

「ええっと、ちょっとその機械貸してもらってもいいですか?」

「ああ、はい」 

 フランス人形は、座る姿勢を一旦初期設定に戻し、最善の体勢を見つけると、ひよこのオスとメスを見分ける鑑定士の目をして注文端末を操り始めた。

「三〇〇グラムのステーキを二枚と、豚の角煮を五人前と、焼き鳥の盛り合わせを三皿と、馬刺しは七人前でいいですかね。よし、ピッと。ハイ、できました」

「え。今の、全部注文しちゃったんですか?」

「ダメでしたか?」

「いえ、構いませんけれど。ぼくは、あんまり食べられませんよ」

「そうなんですか。ワタシ、ちょっと大食いみたいなんです。自分ではよく分からないんですけど。ハニートーストを十個食べて驚かれたことがあります。今日もあとで食べようかなと思ってるんですけど」

「ハニートーストって、食パンを一斤まるごとデコレートしたやつですよね。それを十個?」

「ハイ。チャーハン一升食べたときも、少しおかしいって言われました」

「一升……ですか」

「だけでは足りなかったので、餃子も六十個くらい食べましたけど」

「はあ。なるほど……」

「やっぱりおかしいですか?」

「はい。あ、いや。そんなことは、ないです」

「よかった」

 フランス人形は目を弓の形にして、ソファの上で座ったままお尻でバウンドしている。

 やがて、大量の料理が運び込まれ、テーブルの上を覆い尽くした。

 

「カンパーイ」

「乾杯」

 泡まで冷たいビールが喉を通過し、一秒で全身を駆け巡る。脳が痺れる。

「もう、この際だから、本当の名前を言っちゃいますね」

石川五右衛門さんじゃなかったんですか?」

「さすがに違いますよ。本名は炎です。ファイアー二つで炎です。あなたは?」

「本当の名前ですよ、シエラが」

「へえ。素敵な名前ですね。もしかしてハーフですか?」

「違いますよ。ワタシは死神ですから、ハーフとかクオーターとか、そういう中途半端なものはないんです。死神は一〇〇パーセントの死神だけです」

「ハハハ、そうか。なるほど」

「どうして笑うんですか?」

「いや、それはシエちゃんが、真面目な顔して死神なんて言うから」

「マジメも何もありません。ホントのことを言ってるだけです」

 先程は、奇抜な冗談だと思って流してしまったが、どういうことなのか意図が掴めない。

「本当のことって、まさか。えっ。ほんとうに、死神……なんですか?」

「さっきから、ちゃんとそう言ってるじゃないですか。信じていただけてなかったんですか? 呼吸五八八万二三五三回分の命をいただくというのもホントですよ」

「言いにくいんですけれど、その話を信じるのはなかなか難しいですよ、さすがに」

「ワタシの手、冷たかったでしょ」

「確かに冷たかったけれど、手足の先が冷たい女性はよくいるから」

「ワタシの場合、手足だけではなくて全身が冷たいんです。触ってみますか?」

 女は無垢の笑みを湛えながら、私の顔を真っ直ぐに見ている。

「うん。そ、そう言うのなら、触らせてもらいますね」

 両手の指先で女の頬を触った。その手を下にスライドさせて首に触れた。

「冷たい……」

「でしょ。ハグしてみますか?」

「え。い、いいんですか?」

「ハイ」

 甘い笑顔に見つめられ、一瞬金縛りに遭う。こんなに美しい異性をハグできるのか。怖いがうれしい。うれしいが怖い。鼻で大きく一つ息を吸い、尻で距離をつめて女の真横に位置を定める。太腿と太腿が触れる。女をふんわりと包むように抱いた。ゆるくカールした女の髪が頬に触れる。女の鼻からの微かな呼気を首筋に感じる。女を包んだ腕に力を入れ、抱き寄せた。

 服に隔てられているから、実際に体幹がどれほど冷たいのかは分からないが、少なくとも温かさは感じられない。 

 そういう体質なのか。低体温という異常な体質を利用して、冗談を言っているのか。これがこの女の定番のギャグなのか。しかし、こんな真面目な顔をして、こんな奇妙なギャグをいつまで続けるつもりだろうか。どこかで「なんちゃって、テヘペロ」みたいなオチがあるのだろうか。

 あれこれ考えながらハグした状態のままで固まっていると、女はそっと体を離した。

「信じてもらえましたか?」

「あ、ああ。はい、まあ……」

「じゃ、お料理食べてもいいですか?」

「ど、どうぞ……」

「いただきまぁす。ワ、おいしそ」

 テヘペロじゃなかった。まさか、本当の死神なのか。しかし、人間の形をしているぞ。この高度に文明化した社会で、死神って。いくらなんだって、そんな。やはり冗談だよな。ものすごくきれいな顔をして。

 そうだ。

 きれい過ぎる。きれい過ぎるぞ、この顔は。まるで作ったみたいだ。上野のショールームで見たラブドールみたいだ。そうだ、マジックミラーの向こう側に見たとき、この女はとんでもなく異質だった。そうだ、あのときすでに、生身の人間ではないような気配を感じていたのだ。他の連中は本能的に危険を察知して、敢えて動かなかったのかもしれない。だから、運動会で万年最下位だったこの自分が、早い者勝ちの競争で勝てたのか。

 ビアジョッキを手に取って、不自然ではない程度に女から離れた。

 仮にこの女が本物の死神であったならば、直ちにこの場から逃げ出すべきだし、死神でないならば、精神と肉体を強烈に病んだ本当の意味で「ヤバい」人間なので、どの道これ以上ここにいるべきではないのは明らかなのに、なぜか、動くのが面倒だという、ひどく次元を取り違えた不合理な心理が働いており、動くことができない。体が震える程の恐怖を感じる一方で、この恐怖さえ乗り越えればライバルはいないな、などと妙な計算をしている自分もいる。

「食べないんですか? 馬刺しヤバいですよ」

「あ、ああ。いただきます」

 食べ物の味が、まるで感じられない。

 何があってもおかしくないのが、この世界だと思ってはいた。科学や哲学で説明し切れるものではないと。追究すればするほど闇が深まる感覚も掴んでいた。自分が現実だと思っていることの全てが虚構かもしれないという、逆に、現実は自分の認識とは別の次元に、想像もできない別の形で存在しているのかもしれないという予感だけは持っていた。しかし、今目の前にいる可憐な女性が死神であると言われて、にわかにそれを信じるのは容易ではない。

「ワタシの存在は念の塊のようなもので、今ここにある肉体はレンタルなんです」

「肉体が、レンタル?」

「ハイ。それがたまたま変温動物仕様で、近眼で、お酒が飲めなくて、大食いの肉体だったんですよ」

「変温動物?」

「そう。ウケるでしょ?」

「仮にあなたが、本当に死神だったとすると、あなたの本来の姿は、今ぼくが見ている姿とは全く違うということですか?」

「ワタシには姿というものがありません。さっきも言いましたけど、あるのは念だけです」

「姿がない?」

「ハイ、ありません」

「姿がないって、どういうことですか?」

「どういうことって言われても困ります。Cogito, ergo sumです」

「え?」

「外見なんて、どうでもよくないですか? ヤッバ。豚の角煮、口の中でマジとろけるんですけど」

「しかし、多くの人は外見を気にしますよ」

「そうなんですか? 人間の姿だって、在るようで無いようなものだから、気にしても仕方がないと思いますけど。肉体なんて、噴水みたいなものだと思います。馬刺しマジヤバい。食べた方がいいですよ」

「その『マジヤバい』とか、『ウケる』とかっていう現代日本の若者の流行り言葉を、なぜ死神であるところのあなたが、流暢に使いこなしているんですか?」

「それはこのレンタルボディーにセットで付いて来ました。ワタシたちは念と念で交信するので、言語を持ってないんですよ。つくね、最後の一本もらっちゃってもいいですか?」

「ど、どうぞ」

 こちらはつくねどころではない。そう言えば、デートと引き換えに呼吸がどうとか言っていたはずだ。まさか、今の時点でデートの対価がすでに支払われているなんてことは。

「もしかして、ぼくの命は、今あなたとデートをしていることによって、呼吸何回分か縮まったことになるんですか?」

「ハイ」

「ここまで来て、如何なものかとは思うのですが、このデート、キャンセル、できませんか?」

「それは無理です。あのお店を一緒に出たときに、デートはもう成立してますから」

「じ、じゃあぼくの命は、すでに呼吸何回分か短くなっているんですか?」

「ハイ。五八八万二三五三回分です。その分の命はもういただきました。そういう約束でしたから。もしここでデートを中止しても、貰った分の命はもう返せませんよ」

 五八八万。万がつくのか。時間に換算するとどれくらいだろう。一週間くらいだろうか。まさか一箇月などということは。 

 体温が急激に低下し、全身を震えが襲う。やはり歌舞伎町は怖いところだ。あんな店に行くべきではなかった。おとなしく部屋にじっとしていればよかった。

 違う。歌舞伎町ではない。この女だ。私は生きられたはずの時間を、この女に奪われたのだ。なんだか急に腹が立ってきた。この自分に、命を取られるほどのどんな罪があったというのだ。人畜無害が最大の取柄だというのに。

「どうしてぼくが命を取られなければいけないんですか」

「ワタシとデートをしたからです」

「でも、それだけのことで人の命を取るなんて無茶苦茶な。そんなことをして、罪悪感はないんですか?」

「え、どうしてですか?」

 フランス人形改め死神のシエラは、箸を止めて私の顔を見つめる。

「どうしてって、ぼくは、あなたのせいで、本来の寿命よりも早く、し、死ぬことになるわけでしょう」

「平気、平気。生まれる前の状態に戻るのが少し早くなるだけですよ。元々何十億年もその状態で過ごしてきたわけですし。何十億年のことは気にしないで、たった三百日程度のことを気にするなんておかしいですよ」

「三百……。ぼくの命は、三百日も縮まったんですか! ほぼ一年じゃないですか」

「呼吸のペースによりますけど、だいたいそれくらいです。正確には二七〇日くらいだったような気がします」

「だいたい五八八万なんとかっていう数字は何なんですか」

「五八八万二三五三は、ちょうど切りの良い数字です」

「ちっとも切りなんか良くないじゃないですか」

「どういう数字を切りが良いと感じるかは、文化によって違いますよ。人間だって、十二を一区切りにしたり、七を一区切りにしたり、色々じゃないですか。そんなことより、歌いませんか。ワタシ、先に歌っちゃってもいいですか?」

「え。歌?」

「ハイ。そろそろ歌いたいなあって思って」

「ああ。はい。どうぞ」

「ワタシ、歌マジ下手くそなんで笑わないでくださいね。しかも、男の歌しか歌えないんですよぉ。フフフ」

「フフフって、ちょっと……」

 

 その晩はシエラが、オックステイル、純情新撰組、三善欣也と、世代もジャンルもごちゃ混ぜにして、五時間以上も歌いまくり、私がその合いの手を入れるように、ガーリッシュ、神崎葉、桜田門Σといった女の歌ばかりを選んで、半ばやけくそで歌った。途中、神崎葉さんは確か男でしたよと、キュウリをかじりながらシエラが言った。極東の小さな島国の、そんな芸能情報を知る死神というものが、果たして現実に存在するものなのだろうか。

                               (次回につづく)