あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第1話〉

                                Je m'appelle                                                    

 湾曲した幅の狭い階段を下った酸素の乏しい地下の空間に、その店はあった。マジックミラーの向こう側に見える一から十四までの番号の振られた赤いソファには、女たちがまばらに座っている。うつむいてスマホをいじる女、マジックミラーの鏡としての機能を利用して入念に化粧をする女、「女性はお菓子食べ放題」という店のシステムに素直に身を委ね、菓子を貪る女。自分たちを物色する男たちの視線は、気にならないのか、気にならないふりをしているのか。

 一方、マジックミラーのこちら側では、オスの本能を剥き出しにした男たちが、女たちを無遠慮に観察している。スマホの操作に没頭している女の手前では、頭皮に自信のなさそうな背広の男が、立ったままでは到底確認できない角度に傾いた女の顔を見るために、床を舐めるほどの位置に自分の頭を運び、そこから首を捻って顔を上に向けている。リュックを背負った眼鏡の男は、壁に掲げられた女たちのプロフィールカードを、一枚また一枚とフォルダーから抜き取っては、実物と照らし合わせる作業に余念がない。グレーのパーカーのフードをかぶった撫で肩の男は、気に入った女がいたらしく、自分の存在と意思を相手に伝えるためのメッセージカードを、女の姿を時折確かめながら短い鉛筆で熱心に埋めている。店に入る前は、外見と口先に自信のあるジゴロのような男ばかりがいるのかと思って警戒していたが、だいぶ予想が外れた。

 私は、フロントで「石川五右衛門」という偽名を使って入会手続きを済ませ、ほんの五分程前にこの空間に立ち入る権利を手に入れたところである。会員番号がたまたま「六六六六」とゾロ目だったのを、なかなか珍しいですよと店員に感心され、返事をする代わりに咳払いをしながら、今日はついているかもしれないとほくそ笑んだ。会員証を手にして、灰色と黄土色、二枚並んだアコーディオンカーテンの手前で立ち止まっていると、「ゴールドは女性で、シルバーが男性の部屋です」と店員に教えられた。そのカーテンの向こう側に待っていたのがこの光景であった。エアコンの掻き回す黴臭い空気の中に入ってから、人生に於いていわゆる幸運というものに遭遇することは稀であるという教訓を得るまでに、上着を脱ぐ暇はなかった。

 実際、スマホの女は、この状況で顔を伏せたままでいるという行動から、文脈を読む力が甚だしく欠けていることが分かる。菓子の女は、それが主目的なのではないかと疑われるほどの一心不乱の菓子の食い様で、興をそがれること一通りではない。化粧の女の、公共心を持たない前文明的な行為には、己の人間としての醜さを鼻先に突きつけられるようで、目を背けずにはいられない。

 私には、九箇月前までは、ホームセンターで共に玄関マットを選ぶような間柄の女がいた。しかし、女は突然合鍵を置いて私の部屋を出て行った。あなたといると寛げないと言われた。なんだか怖いとも言われた。喧嘩をしたこともないし、声を荒らげたことすらなかったのだから、怖いと言われても、自らは改善のしようもなかった。実は、この女に限らず、およそ人が自分と接する際に殆ど例外なくバリアを張るということを、私は早くも保育園に通う頃には察していた。成長して、そのバリアの正体は己の自意識の反射であると看破するに至ったのだが、その悟りは呪縛からの解放へとは繋がらなかった。そして、人類全員が結託して自分を爪弾きにしているのではないかなどと、神経症的に思うことも常態となっていた。自意識、つまりはプライドが人の警戒心を呼び起こす源だとすれば、要するにそのプライドを破壊してしまえばよいのではないかと結論付け、敢えて無茶な行動をとって自分を貶めるというような荒療治も行ってみた。

 高校時代のことだが、相撲の廻し一丁で湯河原から皇居までの一〇〇キロの道のりを、二四時間かけて歩いたことがある。人々の好奇の目には、三〇分程で慣れてしまったので、残りの二三時間半は、ただただ廻しと内腿の摩擦による皮膚の痛みとの格闘に費やした。

 大学時代には、「待ち合わせ場所」と大書した二枚の段ボールで、サンドイッチマンのように体を挟んで大学の構内を歩き回り、授業も受けた。そんな人間を待ち合わせ場所として利用する者は当然一人もおらず、その代わりに教授陣をひどく立腹させ、「授業時の仮装禁止」という、世にも下らない規則を生み出す結果となった。

 振り返れば我ながら狂人としか思えないそれらの沙汰も、神の気まぐれによる呪いを解くための大真面目な戦いだったのである。

 

 事故的な僥倖が重なって、件の女性との交際が始まったときの話だが、迂闊にもこの人にはバリアを張られていないものと思ってしまった。胃腸の弱い私はしょっちゅう腹が痛くなるのだが、それをいちいち本気で心配してくれる女性の様子から、結婚するならこの人しかいないとまで思うようになっていた。

 生活を安定させるために資格を取ろうと思って、通信教育におよそ百万円を振り込んだ、コスモスの揺れる晴れた日の夕方のことである。女性は合鍵を置いて私の部屋を出て行った。

「あなたといると寛げない。胸の奥の方で、ずっと怒っているような気がする。口の臭いが結構きついから、キスするとき息止めてたの、気づかなかった? すぐにお腹が痛くなるのもイヤ。守ってもらいたいのに、どうしてこっちが守らなきゃいけないのっていつも思ってた。手をつなぐときのあなたの手汗に、嫌悪感しかないことに、最近気付いてしまって。優しい人だとは思うけれど、もうあなたに、異性としての感情はない」

 と、嫌いな理由をこれでもかと列挙され、すっかり動転した私は、かすれた声で「ごめん。今まで付き合ってくれてありがとう」と言うのが精一杯だった。

 人間恐怖症をこじらせ、しばらくはマスターベーションすらできなくなった。アイドルの写真集もアダルトビデオも疎ましく感じられ、全て処分した。しかし、このままでは生きていけなくなると思い、一人で山に登ったり、禅寺で座禅を組んでみたりした。時の経過にも助けられ、お気に入りのアイドルへの興味が徐々に戻り始めた。そして街で女性にときめくところまでどうにか辿り着いた。そんな療養期間を経て今回、リハビリのようなつもりで「出会いカフェ」と呼ばれるこの店を訪れたのだった。

 自分の性懲りのなさにはほとほとあきれたわけだが、リハビリというのはどうやら単なる口実で、今度こそ琴線と琴線で共鳴し合える女性とめぐり逢えるのではないかなどと、知らぬ間に期待してしまっていたらしい。

 今この胸の内にある失望が、それを見事に証明している。

 マジックミラーの向こう側の赤いソファに座っている女たちの様子を見て、その身の程知らずのおこがましい期待が、容赦なく打ち砕かれたというわけだ。

 このような失望は人生で幾度目だろうと進歩しない自分を呪いながら、同時に、入会金の五千円は、巡り巡って不幸な少女のバースデイケーキかクマのぬいぐるみに変身するはずと己を慰めながら店を出ようとした、まさにその刹那である。丁度自分とすれ違うようなタイミングで、一人の女性がマジックミラーの向こう側の部屋に入ってきた。心拍数が一瞬にして二倍に上がったことを確信した。女性は、同じ空間を占有する他の者たちとは、纏っている空気が明らかに違う。現実臭い生身の人間たちの中にポツンと一体、現代風のフランス人形が置かれている、そんな風情である。

 黒いワンピースの肩を覆う銀色の髪は緩やかにウェーブしていて、露出した肌は雪のように白い。ルノワールの描く少女を思わせる湿り気を帯びた琥珀色の大きな瞳に、メタルフレームの丸メガネが特徴的である。そんな彼女は、ソファの「六」という番号の振られた位置に自分の居場所を定めると、膝の上の黒白ストライプのバッグに両手を載せ、背筋を伸ばして座った。瞳と唇には静かな笑みが浮かべられている。

 私は店を退出するという案を即座に自ら却下した。周りの男たちが一斉にそわそわし始めたことを空気の振動で感じ取ると、私は壁に設置された女性たちのプロフィールカードのフォルダーまでぎくしゃくと移動し、六番のカードを、スリの見習いのごとく震える手で抜き取った。そして息継ぎをする間も惜しんで、その女性へのメッセージカードを短い鉛筆で震えながら埋め、プロフィールカードと二枚重ねて、これまた震える手で店員に渡したのである。メッセージカードには、「ひとりでカラオケに行く勇気がないので」と書いた。氏名の欄に「石川五右衛門」と書きながら、間違えたと思った。

 女性のプロフィールカードの名前の欄には「シエラ」と書いてあった。外見に相応しいきれいな名だと思ったが、こちらが偽名ならば、あちらもそうだろう。

 そして、店員に指示された小部屋に移動し、フランス人形の到着を待つこととなった。

 小部屋は、人が二人ようやく並んで座れる程度の空間である。ハンカチで手汗を拭い、口臭予防スプレーを口内に噴霧した後、心臓の鼓動を鎮めるべく深呼吸を二つ三つ試みたが、そのいずれにも効果は認められない。フランス人形が来たらどんな気の利いたセリフを言おうかしらと考え始めた約三秒後、当のフランス人形がカーテンをめくって現れた。

 今やフランス人形と私を隔てるマジックミラーという防御装置はない。フランス人形が、わずか六〇センチほどの空気の塊を経由して私を見ている。今、メガネの向こうの薄茶色の大きな瞳には、間違いなく私の姿が映っているのだ。耳を澄ませば、フランス人形の瞬きの音さえ聞こえそうな静寂が、永遠にも感じられる。

 気の利いたセリフは準備が間に合わなかったため、ひとまず世界で最も当たり障りのないカードを切ることに決めた。

「こんにちは。はじめまして」

 かろうじて声は震えずに済んだと思う。フランス人形はつまらない男と思っただろうか。怖くて表情を窺うことすらできない。食道から肛門までの消化器官が、固まって活動を休止している。早くも腹が痛くなってきた。

「こんにちは。座ってもいいですか?」

「どうぞ」

 唾を飲み込む音が鳴ってしまった。

「失礼します」

 フランス人形が隣に座った。太腿が微かに接する。薄桃色の匂いが鼻孔に流れ込む。

「正直に言うと、ぼく今ものすごく緊張しています」

 声が震えてしまった。

「ワタシもです」

 フランス人形が微笑む。ここ十年分の幸せを一秒で感じた。

 もうすでに、フランス人形に恋をし始めている。

「シエラさん、でしたよね」 

「ハイ」

 恍惚感が続く。

「シエラさんが鏡の向こうの部屋に入って来た瞬間、心臓が止まるかと思いました。素敵過ぎて」

「えっ、本当ですか。ウケる。心臓まだ止まらないでください。困ります」

 ウケる。この言葉が地球上に存在することは知っていた。しかし、到底自分には縁のない言葉だと思っていた。そんな伝説の言葉が今、紛れもなくこの自分に向かって放たれたのだ。

「心臓が止まると言えば、実はぼく、この間、結構な怪我をして入院したんですよ。膝だったんですけれど、手術をして、三週間くらい」

 先日、ただ街を歩いていただけなのに、車道と歩道を分ける段差に足を取られて、左膝の前十字靭帯と半月板を損傷するという重傷を負ったのだ。心の傷が、体の傷を呼び込んだらしい。

「ええっ、手術したんですか。ワタシ、痛いの苦手なんです。痛かったですか?」

 フランス人形が眉を「ハ」の字にして、私の胸に哀憐の波を送ってくる。

 バリアは?

 バリアを感じない。

 バリアが、ない? 

 物心がついてから初めて、自意識によるストッパーが弛み、自分の中でそれまで滞っていた何かが流れ始めたことを実感した。

「ものすごく痛かったです。その後、何のスイッチがどうして入ったのか分からないのですが、やたらと惚れっぽくなってしまって。三週間入院している間に、看護師さんを二人も好きになってしまいました」

「ほんとですか。ヤバくないですか、それ」

 「ヤバい」とか「ウケる」とか、これまで、そんな言葉を使う馬鹿な女は、それだけで死刑に処するべきと考えていた。しかし、このフランス人形に「ヤバくないですか」と問われた時、自分の誤りを直ちに修正した。

「ヤバいですよね。自分でもそう思います。そして、退院した後もそのヤバい状態が治っていなくて、街を歩いていると、すれ違う女性十人に一人くらいの割合で胸がキュンとなってしまうんですよ」

「マジウケるんですけど」

 またウケた。しかも今度は「マジ」と「けど」までついた。丸くて透明な笑い声に鼓膜をなでられ身を捩りたくなる。調子が良過ぎて今日の帰り道、ビルの屋上から身を投げた人が降ってきて、その巻き添えを食って死ぬのではないかと心配になる。いっそ、死んでも構わないと思うほど、トランス状態はステージが上がっていた。

「話は戻って、シエラさんが向こうの部屋に入って来た時のことなのですが」

「ええっ、そこまで戻るんですか。寄り道が長過ぎますよ」

 叱られた。

 しかし、こんなこそばゆい叱られ方は、初めてである。 

「すみません。あの瞬間は、胸がキュンどころではなく、肋骨がバリバリッと五、六本は砕けました。危うく警察に捕まるところでした」

「ウソばっかり。オモシロい人ですね」

 幻聴ではないかと己の耳を疑う。面白い人。本当に自分に向けられた言葉か。前回この言葉を言われたのは一体いつだったか。その記憶に辿り着くためには、おそらく輪廻を逆再生し、古代ローマの旅芸人だった頃の人生に遡る必要があるだろう。

「本当のことを言っただけです」

「ウソ」

「すみません。嘘です。でも、シエラさんが素敵というのは本当です」

「ウケる」

 ウケる。天女の琴の調べか。こんな甘露の時が続くのならば、このマッチ箱の中で一生を過ごしてもよいと思うのだが、実際ここにいることが許されるのはわずか一〇分間である。

「シエラさん。あの、ひとつ訊いてもいいですか」

「ハイ」

「その、正直なところ、ぼくは、ありでしょうか、なしでしょうか」

「え? アリ、ナシって何ですか?」

「この後のことです」

「このあとって?」

 駄目だ。眉根を寄せられた。いつもの流れだ。結局ここまでか。しかし、こんなに魅力的な、しかも波長の合いそうな女性とは、もう二度と出逢えないような気がする。どうせ斬られるのなら、後悔せぬよう真っ二つに斬られよう。

「ぼく、カラオケが割と好きなんですけれど、一緒に行ってくれる人もいなくて。もしよろしかったら、ぼくとカラオケデートをしてもらえませんかっ」

 母親の胎内から外に出たとき以来の勇気を奮って一息に言った。

「いいですよ」

 いいですよ、いいですよ、いいですよ、いいですよ、

 フランス人形の声の波が、スピンしながら耳の内側の壁を乱れ打つ。脳内はもはや祭りである。

「ただ、一個だけお願いがあるんですけど……」

 フランス人形の声に微かな警戒の波を感じた。祭りは即座に中止され、中途半端な笑みだけが顔面に残ってしまった。

「あ、分かります。あれですよね。もちろん了解です。与謝野晶子くらい、ですか?」

 店に来る前にネットで予習しておいて正解だった。小遣いのことだろうと察した。いわゆる「援助交際」というものに不可欠な要素である。「与謝野晶子」は、その肖像が紙幣に使われている五千円を意味する。それはそうだ。こんなに素敵な女性が、私のようなものと無条件でデートをしてくれるわけがない。波長が合うなんて、ほんの一時でも浮かれてしまった自分が呪わしい。

「え? ちがいます」

 五千円では足りなかったか。

「そうですよね。シエラさんは素敵だから、湯川秀樹ですよね。問題ないです」

 けちな男だと思われたか。慌てて一万円に値上げした。

「そうじゃないんです。デート一回につき、あなたの命を、呼吸五八八万二三五三回分いただきます。ワタシ、こう見えても死神なんですよ」

                               (次回につづく)