あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第5話〉

                                Je m'appelle

 明け方から雨が降り始めた。

 今年の梅雨は真面目だ。毎日のようにしっかりと降る。新宿東口交番前は、晴れていればガードレールに腰かけられるので快適な待ち合わせ場所だが、雨だと困る。ガードレールという拠り所がないと、不安が増幅する。シエラには逢いたい。が、死が二七〇日近づくと考えると、やはり身がすくむ。前回分と合わせれば五四〇日だ。四回デートをすれば、およそ三年命が縮まることになる。現在二十七の自分は、仮に八十まで生きる潜在可能性を持っていたとすれば、七十一回のデートで死ぬことになる。どうしても算数が止められない。

「うわっ」

 突然後ろから脇をくすぐられた。振り向くとワインレッドの傘を差したシエラがカラカラと笑っていた。

「ウケる。敏感ですね」

「ウケないよ。やめて」

「やめません。えいっ。コチョコチョコチョ」

 シエラは傘を辺りに置いて、両手で脇を攻撃してきた。自分は身を捩りながらも、他者との間に垣根がないという経験の新鮮さを味わっていた。

 バリアを張られない、垣根がない、というのは、こんなにも気持ちの良いものだったのか。人生にこんな喜びのあることを、二十七年間も知らずにいた。

 自分もビニール傘を放り投げて、シエラの脇をくすぐり返す。

「シエラはくすぐったくないですよぉ、死神だから」

「それはこういうところでは言わない方がいいよ」

「こういうところって、どういうところですか! 変な顔したハトに見られてるところってことですか! それとも、どさくさに紛れてシエラのオッパイを揉むエッチな人がいるところってことですかあ」

 シエラがお腹一杯の声を張り上げるので、待ち合わせをする周りの人々ばかりか、交番の巡査までが怪訝そうに私たちを見ている。

「ちょっ、オッパイって。脇をくすぐり返しただけでしょ。とんでもないなシエちゃんは。行くよ、もう」

「モウって、牛ですか、オジサンは」

「せめてお兄さんって言って、そこは」

 牛の鳴き声の真似をするシエラの手を引っ張って、強引に移動を始めると、後ろから 「傘、傘、」と言いながら、知らない人が二本の傘を持って追いかけて来てくれた。

 こんなふうに、人の自然な厚意に触れるのも新鮮だ。シエラは、周りの人のバリアをも解除する力を持っているのかもしれない。

 

 アルタ前の赤信号は長い。シエラはワインレッドの傘を閉じて、私のリュックに引っ掛けた。

「シエちゃん、どこに行く?」

 人生初の相合傘の下で尋ねた。

「ウケる。ホテルに行きたいって顔してますよ」

「どんな顔だよ、それ」

「こんな顔です」と言って、シエラは私の頬を左右の手でつねる。

「痛たたたたた。やめて」

 本当に痛かったので、傘を差していない方の手でシエラの二本の手を制して、頬を守った。

「ホテル以外だったらどこに行きたいんですか?」

「今日の行き先、ぼくが決めていいの?」

「いいですよ。つねる準備はできてますから」

 シエラは再び私の頬に両手を伸ばす。

「やめてってば。あのね、もしいやじゃなければ、岩盤浴に行きたいんだけれど」

「シエラも行きたいです」

「ほんと?」

「ハイ」

 ようやく信号が青に変わった。シエラはピョンピョン跳ねながらまとわりつく。

「シエラ、歩きにくいから」

 あこがれの「女子呼び捨て」という荒技に、果敢にも挑戦してみた。

「ちょーウケるんですけどぉ。何をイケメン風のセリフを言っちゃってるんですか」

「あっ、そういうこと言うかな。ちょっとはカッコつけさせてよ。一応デートなんだから」

「ウザっ。キモっ。カッコつけるのはカッコ良くなってからにしてください」

「この間、外見なんてどうでもいいって言っていたでしょう」

「そうですよ。イケメンとかブスとか気にするなんて、頭がワル過ぎます。そんな人はすぐに死んだ方がいいと思います」

「え。何言ってんの。まさに今のあなたが、そんな死んだ方がいい人だったのだけれども」

「ああ、気にしないでください。今時の女の子のセリフや行動が、時々体から勝手に出て来ちゃうんです。シエラの思ったことじゃありません」

「ああ、そうなんだ。びっくりした」

「どのセリフがレンタルの体から出たもので、どの言葉がシエラ本体から出たものなのか、適当に判断してください」

「難しいね、どうも」

「売り言葉に買い言葉です」

「ことわざの使い方、ちょっと間違っているような気がするけれど。その言葉も、借りた肉体にインストールされていたの?」

「学習能力もあるんです」

「そうなの。すごいね」

「あ。今ちょっと馬鹿にしましたよね、シエラのこと」

 シエラは、こちらに向かって鼻を突き上げる。

「いや、馬鹿になんかしていないよ」

「馬鹿にしました。それで、ガンバンヨクってどこにあるんですか?」

「あ、ああ。この前ね、カラオケに行った時に窓から見えたんだよ、『岩盤浴』って大きな看板が」

「ふぅん。シエラ、ちっとも気が付きませんでしたよ」

「シエちゃんは食べてばかりいたからね」

「あ。やっぱり馬鹿にしてますよね」

 シエラはまた私の両頬に向かって手を伸ばす。

「してないって」

 肩で頬を守りつつ、シエラの手の軌道を、掌で封鎖する。

「どうしてつねらせてくれないんですか。シエラのこと、嫌いになったんですか!」

「いや。シエちゃんは結構力があるから、本当に痛いんだよ」

「痛いようにつねってるんです。オジサンの頬っぺた柔らかいから好きなのに、つねらせてもらえないなんて悲劇です」

「悲劇ではないでしょ、明らかに。ほら着いたよ、岩盤浴

「わーっ、ホントですね。大きな看板がかかってます。まじウケる。ガンバンヨクって何ですか?」

「えっ、知らないの。岩盤浴に行きたいとか言っていたよね、さっき」

「言いましたよ」

「知らないのに?」

「ガンバンヨクって音の響きが、なんだかラップっぽいじゃないですか。ガ~ン、バ~ンて、濁音が二個もあるんですよ」

「濁音とラップは関係ないでしょ。韻を踏んでいるっていうのならまだ分かるけれど。ラップが好きなの?」

「別に好きじゃありませんけど」

 なぜかまた鼻を突き上げる。

「濁音だったら、ビビンバなんか三つもあるよ」

「あっ。ビビンバ。それ、後で食べましょう。今日は韓国料理に決定ですね」

「韓国料理ね、掌に書いて覚えておくよ。よし、まずはシエちゃんの岩盤浴デビューだね」

「楽しみー。ウーララ、ウーララ、」

 体をくねくねさせながら踊っていて前をよく見ていないので、シエラは建物から出てくる人にぶつかった。

「あ。ゴメンナサイ」

 ずれたメガネを直しながらシエラが男に謝った。

「おお、シエラ」

 シエラにぶつかられたアロハシャツのいかつい男が、太い眉を上げて言った。

「あっ、ケンちゃん」

 シエラは大きく目を開いて男に近づいて行き、その分厚い胸板をペタペタと叩く。

「誰だ、そいつは」

 シエラに抱きつかれた状態で男は眉間に皺を寄せ、ポツンと一人になった私を睨む。

石川五右衛門さんです」

「ふうん」

 男は不気味な笑みを浮かべる。

「にいさん、こいつのこと分かって付き合ってんのか?」

「付き合う、というほどのことはしていませんが」

「そうじゃねえ。こいつのこと分かってんのかって訊いてんだ」

「こ、呼吸のことですか?」

「おう」

 シエラは男の胸毛を手で弄んでいる。

「一応、分かっているつもりでは……」

「こいつの言ってることは本当だぜ。こいつに入れ込んで、実際に死んだ奴を俺は知ってる」

 シエラは男の胸毛を一本抜いた。

「痛てえな、この馬鹿。やめろ」

「怒りましたね」

「それが、その方の元々の寿命だったということは?」

「病気じゃねえよ、事故なんだよ」

「事故?」

 言われてみれば確かにそうだ。死ぬ原因は病気とは限らない。事故で死ぬということも当然あり得る。だとすると、体調が良いからしばらくは死なない、とは言えなくなってくる。

「青信号で横断歩道を渡ってたときに、脇見運転のトラックに撥ねられて即死だよ」

「ケンちゃん。すみませんけど、その話また今度にしてもらってもいいですか。今、シエラ、ガンバンヨクデビューするところなんですよ。石川さんに連れてってもらうんです」

 シエラはようやく男から離れて、傘を持った私の腕に絡みついてきた。

岩盤浴デビュー? 馬鹿野郎。俺が連れて来てやっただろうが、ここに。前歯に後ろ蹴り食らわすぞ、コラ」

「来てませんよ。ケンちゃん、また他の女の人と間違えてるんじゃないですか?」

「そうだったっけか」

「そうですよ。失礼しちゃいますね。石川さんにも失礼ですよ」

「分かったよ。悪かったな、にいさん」

「いえ」

「じゃあな、シエラ」

「じゃあネ、ケンちゃん」

 シエラは男に投げキッスをした。

 男は赤い花柄の傘を差し、立ち去りかけて、徐に振り返った。

「おう、にいさん。おまえ、見た目によらず勇気があるな。俺はおっかなくなって、そいつと付き合うのはやめたよ。五年くれえ命は縮まったはずだ」

「五年ですか……」

 私は今日のデートで前回と合わせて五四〇日、約一年半。春夏秋冬と春と夏。

「ねえねえ、早くガンバンヨク行きましょうよ」

 シエラが私のシャツの裾を引っ張る。 

 未練を残した男の目をシエラがまるで気にしていないことを確認して、私は、頬に浮かぶ笑みを懸命に噛み殺しながら、全身に鳥肌を立ててカタカタと震えた。

                             (次回につづく)