シエラ〈第4話〉
Je m'appelle
休憩を終えると、また巡回である。今度は先程とは違うルートを回る。なにしろ建物が巨大なので、全体が四種類のルートに分けられており、それをローテーションで回すのだ。
コツコツと自分の靴音だけが、誰もいない廊下に響く。誰もいないと、つい独り言を言ってしまう癖が自分にはある。気が付くと、「あぁ、シエちゃん」などとつぶやいている。デートをすれば二七〇日も命が縮まるというのに、シエラの名をつぶやくと、なんだか命が延びるような気がする。実は死神ではなくて天使なのではないかしらなどと思いながら、懐中電灯でボイラー室を照らす。金属製の臓物が暗闇の中で複雑にうねっている。
誰もいない屋上の点検を終え、眼下に広がる大都会の夜景を眺めることもなく、ドアを開けて建物の中に戻ろうとした時、尻のポケットに入れたスマートフォンが振動した。LINEの着信があったようだ。真夜中の二時にLINEを入れるとは、どこの唐変木だろうと思いながらも胸が高鳴る。
シエラではないか。
死神に夜中も正月もなかろう。
スマホを開く。
鼓動が加速する。
[今日、お仕事ですか?]
一人、顔が火照る。
「今日」とはいつだ? 日付通りの「今日」のことか。だとすれば、睡眠を犠牲にすれば日中は空いていることになるが。
[昼間はオフだよ] と返信する。
すぐに既読がつき返事がきた。
[逢えませんか?]
二七〇日分の命の懸かったデートか。
面白い。
むしろ好都合ではないか。
歴史に名を残すはずもなく、日々徒に飯を食っては排泄をし、酸素を浪費し続ける無価値な人生にうんざりしていたところだ。これまで終始心を覆い続けてきた鎖帷子を脱ぎ捨て、口といい毛穴といい肛門といい、体中の穴という穴は全て三六〇度開放した状態で、好きな女と共に過ごし、好きな女に命を預け鋭角的に生きて凛と死ぬ。死ぬのは死ぬほど怖いが、人間生まれたからには最低一度は死なねばならぬ。早速シエラに感化されたか、一三八億年の宇宙の歴史を考えれば、一〇〇歳で死のうが、二十七歳で死のうが大した差ではないように思えてくる。
悪くないシナリオだ。
一文字一文字、彫刻刀で刻むようにしてLINEの文面を打つ。
[いいよ。何時にどこで逢う? ]
[十時に新宿東口交番前ではどうですか?]
東京の習俗に、やけに明るい死神である。
[午前十時に新宿東口交番前ね。オッケー]
[ありがとうございます。またお逢いできるのを楽しみにしてます]
そして、礼儀正しい死神である。カラオケで二時間ほど過ごしたところで、お互い敬語をやめないかと提案した時に、シエラは分かりましたと言いながら、「ヤバい」「ウケる」などの特殊な語彙を除外すれば、敬語を決して崩さなかった。二人の間に距離を作るこの言葉遣いが、シエラに対する不満のうちの一つなのだが、レンタルの肉体には敬語しかインストールされていなかったのかもしれない。
スマホを尻のポケットに戻し、一つ大きなあくびと伸びをして、巨大なガラスのオブジェの天辺から見える大都会の夜景を眺めた。
無数の光の色彩に装飾された幾何学的な造形が、三六〇度パノラマ状に広がっている。こんな景色だったのか。毎日この屋上に来ているというのに、初めて知った。しかし見渡す限り人工物ばかりだ。皇居外苑や日比谷公園など、箱庭的な自然が辛うじて残されてはいるが。
千年前のこの場所は、どんな風景だったのだろう。海に近いから、東はただの平べったい地面か。西の方は武蔵野台地だから、森が広がっていたに違いない。人間という生き物は、地面の形を、よくまあこんなにも変えられるものだ。人間もまた自然の一部分なのだから、その人間の営みによってできたこの状態も、また自然と言えるのだろうか。その見方には、さすがに無理があるような気がする。いくらなんでも、バランスが悪過ぎるだろう。人間の都合を優先し過ぎだ。そこを棲み処としていた生き物たちは、一体どこへ行ったのだろう。
植物たちは、たくましくも石畳の隙間やアスファルトのひび割れで生を営んでいる。昆虫にとっては、そんな植物が拠り所になるのか。鳥は、その昆虫に依存してなんとか生きているわけだ。随分不自由をさせているな。人間は春夏秋冬、エアコンの利いた快適な室内で優雅に暮らしているというのに。
人間以外の生き物にとっては、人間こそが死神だよな、間違いなく。
(次回につづく)