あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第11話〉

                                Je m'appelle

 自業自得だが、今日の勤務はつらい。明日の朝七時まで警備をしたら、四〇時間も不眠のまま過ごすことになる。警備をしながら眠ってしまいそうだ。いつもの国際展示場の勤務ならよいのだ。仕事中はずっと歩いているわけだから、いくら眠くても眠りようがない。

 しかし、今日の勤務は違う。極めて狭い範囲をうろうろする程度の、静かな警備なのだ。何を守るのかというと、牛だ。ただし生きた牛ではない。牛のオブジェらしい。「らしい」というのは、話を聞いただけで、まだ実物を見ていないということなのだが、その話によれば、サイズも形もリアルな牛の像をキャンバスにして、有名無名のアーティストたちが腕を振るったものだそうで、東京丸の内のそこここに、およそ七〇体展示されているということだ。私が警備するのは、七〇体のうち特に価値の高い十一体で、それが配置されている範囲というのは、陸上の二〇〇メートルトラック程度の面積。その中を夢遊病者のように、行ったり来たりしながら、動かない牛たちを見守るのだ。

 どうして真夜中に牛のオブジェを見張る必要があるのかというと、昼間はともかく夜になると、酔っ払いや、無法を旨とする若者が、牛に落書きをしたり、牛の背に乗ったりする恐れがあるので、それを未然に食い止めるために、我々警備員の出動が要請されたということだ。

 そんなわけで、十一頭の牛を一晩見守るわけだが、二人一組になって交代しながらの勤務となる。会社から指示されたビルの中の、「警備員控室」という手書きのコピー用紙がセロテープで貼られたドアを開けると、止まれがタバコを吸っていた。

「こんばんは。今日はよろしくお願い致します」

 私の顔をチラリと見ると、止まれはチッと舌打ちをしてから「おぅ」と言った。

その後、独り言のように「硬てぇんだよな、ったくよ。死ね」とつぶやいた。

 なぜ私が死なねばならぬのかと、訊ねようかとも思ったが、下らないので止めた。魂の腐敗した人間である。存在無価値生命と言ってもよい。

「順番は、どう、しますか」

 不覚にも声が震えてしまった。

「どっちでもいいよ」

「では、私から行かせて、いただきます」

 ゴクンと、今度は唾を飲み込む音が鳴ってしまった。

 フンッと鼻で笑われた。

 カスと追加された。

 死神は、このような人間からこそ命を奪うべきである。

 

 制服に着替えて勤務についた。

 梅雨寒で気温は低いが、幸いにして雨は止んでいる。牛たちは可愛くないこともない。しかし眠い。これから八時間、これらの牛たちと付き合うことになる。一人が警備を行っている間、もう一人は休憩を取るというシステムだ。一時間半の勤務を交互に二回ずつ行った後、一時間の勤務を一回ずつ行うと、ちょうど八時間になる。

 空には星が出ている。酔っ払いも、無法な若者も、その気配すら感じられない。恐ろしく平和で退屈な勤務になりそうだ。他に見るものもないので、牛を見る。アメリカの星条旗がデザインされた牛。体中に人の目が描かれた牛。林立する摩天楼の夜景が描かれた牛。田園風景の描かれた牛。ヒョウ柄の牛。牛は一つひとつライトアップされていて、考えようによっては、屋外美術館を一人で借り切っているようなものだ。

 もしここにシエラがいたら、小粋な夜のデートになったのに。 

 今日の一連の出来事で、シエラが生身の人間ではないということは明らかになった。一方で、シエラへの想いは、時を経るごとに重症化している。

 今日の昼間はシエラとべったり過ごしていたというのに、今ここにシエラのいないことが切なくて、胸が痛くて呼吸が苦しい。

 今度シエラに逢えるのは一体いつだろう。牛を見張りながら、シエラの頭のてっぺんから足の爪先までを、できる限り細かく丁寧に思い起こして、胸の隙間をふさぐことにする。

 まずは髪だ。シエラの象徴とも言える銀色の髪は、耳の辺りから緩やかなウェーブがかかり肩甲骨を覆っている。前髪は目にかかるくらいの長さで、その隙間から眉がのぞく。シエラ自身は「今日は髪の毛がぼさぼさです」と口癖のように言う。おそらくレンタルの肉体に、元々インストールされていたセリフなのだろうが、それに対して私が「そんなことないよ。素敵な髪だよ」と応じるのが、二度のデートで早くも確立された定番のダイアログである。

 続いて目だ。睫毛は長い。そしてカールの傾斜角が圧倒的である。スキージャンパーがシエラの睫毛で滑降を行ったなら、空に向かって離陸してしまうため大変危険である。そして、目全体における薄茶色の瞳の占有率が規格外に大きくて、その瞳には常に潤いが感じられる。なんたる匠か。あの瞳で見つめられたら、たとえ寝起きでも、軽く一〇〇キロは走れる自信がある。

 次は鼻の件である。シエラは自分の鼻をダンゴっ鼻と称するが、それはまるで事実とは異なる。シエラの鼻は、アイガーのナイフリッジのごとく美しい稜線を描いている。来年の元旦には、シエラの鼻の尾根から昇る初日の出を是非拝みたい。

 そして口である。小文字の「w」の字を描いた口は、怒っている時でさえ微笑んでいるように見える。照れたり、何かを企んだりすると「v」字になる。この時、抱きしめたい衝動を抑えるには、約一〇トンの精神力を必要とする。

 さて、シエラと言えば、何を差し置いてもアゴの角度というテーマだけは外せない。

「ちょっとそこのヒト。信号送り過ぎですよ」

「えっ」

 声のする方向を振り向くと、銭湯富士の描かれた牛の上に、シエラが跨がっていた。

「シエちゃん。どうしてこんなところにいるの?」

「念を送り続けるおかしな人が、この辺に一人いるからですよ」

「それはもしかして、ぼくのこと?」

「ええっと、他に誰か、いますかねぇ」

 牛に跨がりながら小手をかざして、シエラは辺りを見回す。

「ぼくの心の声が、伝わっちゃったってこと?」

 シエラが、牛から飛び降りる。

「それは伝わりますよ、あんな強烈な電波を送られたら。シエラの本体は念の塊なんですから」

「そうか、ごめん。でも、すごい。ぼくにそんな能力があったとは」

「どちらかというと、シエラの能力だと思いますけど」

 シエラは、牛の乳を搾るまねをしながら言う。

「そうだね。それじゃ、他の人の心の声も色々と聞こえちゃうの?」

「………」

「そう言えば、寒くない?」

「カイロ二〇個くらい体中に貼りつけてきましたから平気です。それに、こんなにモコモコの服。ほら、見てください」

「クマのぬいぐるみみたいだね。昼間はごめんね。ぼくが悪かった」

「シエラも、油断しました。雪の誘惑に負けました」

「シエちゃんのモコモコの服は可愛いけれど、ぼくはこんな恰好……」

 警備員をしている姿は、シエラには見られたくなかった。この制服は、負けっ放しの私の人生の象徴である。

「カッコいいじゃないですか。お巡りさんだったんですね」

「警察官なら良かったんだけれど。バイトの警備員なんだ」

 そう。私はバイトの警備員なのだ。

 自分の言った言葉を、自分の耳で聞いて、自分で傷つく。

 と、その時、足音が近づいて来た。

 コツ、コツ、コツ、コツ、

 「どうかされましたか」

 止まれが、怪訝そうな顔をして立っている。いつの間にか、交代の時間だったようだ。シエラが現れて、時間の感覚が狂った。

「何でもありません。知り合いが、たまたま通り掛かっただけです」

「なんだ、知り合いか。んんっ? こんな時間に、こんなところを、たまたま通り掛かるか? 知り合いが」

「ワタシが勝手に来ちゃったんです。ゴメンナサイ。もう帰ります」

「あ、いや。別にいいですけど」

 止まれは、シエラの全身を舐めるように見る。

「あの、お二人はどういう御関係で? 一応勤務中、なんで聞いておきたいんですけど」

 止まれは「勤務中」をやけに強調する。

「いや、ただの知り合…」

援助交際です」

 シエラが、私の言葉を遮って、超絶オウンゴールを決めた。

「それは言っちゃダメ」

 と言っても、無論手遅れである。

 止まれは一瞬驚いた顔をしたが、しばらくすると、血まみれの包丁を持った猟奇殺人鬼のような顔で、ニヤリと笑った。

「そういう関係を仕事場に持ち込むのは、どうなんでしょうかねぇ」

 柄に合わないまともなことを言いながら、止まれは私を見た。

「すみません。私が悪いんです。今後、気をつけます」

「うん、気を付けてください。きみは休憩していいよ、もう私の時間だから。彼女は少し残ってください。この仕事について、ちょっと説明しておかないとね。今後また、このようなことがあってはいけないから」

「はい。お願いします。では、休憩を取らせていただきます」

 止まれは、胸にバッヂを二個つけた上の立場の人間だし、職業倫理的に非があるのは明らかにこちら側なので、ここはただ謝って奴の言う通りにするしかない。

 シエラは目だけで笑って、私に小さく手を振った。

 

 休憩室に戻っても、全く落ち着かない。普段なら、このような業務の時は、部屋に一人という幸せを噛みしめながら大いに寛ぐのだが、今日は、シエラと止まれのことが気になって、まるで安らげない。さすがに、その場で何か非道な目に遭うことはなかろうが、あの止まれのことだから、シエラが一体どんな精神的苦痛を受けているのか、心配でならない。

 休憩の一時間半が過ぎた。

 現場に戻って止まれと勤務を交代する時には、シエラの姿はなかった。止まれは、一応俺から説明しといたから、もう職場には来ないと思う、とか何とか、牛の耳を弄びながらモゴモゴと言った。さらに苦言の五つ六つは受ける腹構えでいたが、不思議と何もなかった。

 勤務が明けて帰る頃には、牛たちの背景は、夜空から明け方の白い空に変わっていた。そして、足早に歩くサラリーマンの姿が、ちらほらと見え始めていた。

 制服の入ったリュックを背負って歩き始めると、額に雨粒が落ちた。やはり今年の梅雨は真面目だ。リュックから折り畳み傘を出して開いた。一区画ほど先に、吉牛のオレンジ色の看板が見える。実に長い牛の日だった。

                               (次回につづく)