あるゾンビの独り言

援助交際の支払いは命で... 非モテ男子の予測不可能恋愛物語

シエラ〈第14話〉

                                                                                                                           Je m'appelle

 現在、一階の大展示場では『特別展 人体の神秘』というイベントが行われている。なんと本物の人間の死体が、輪切りにされたり、縦に切断されたり、神経だけが取り出されたりと、様々な状態で無数に展示されているのだ。倫理的に問題があるのではないかとか、死体の身元はどうなんだとか、いろいろ物議を醸しているが、学術的なイベントとしては例を見ぬほどの大盛況である。そのようなわけで、大会場であるにもかかわらず、昼間は入場整理券が必要になるほど人で溢れかえっており、生きた人間の数が、死んだ人間の数をはるかに凌駕している。しかし夜は、生きた人間が一人もいなくなってしまうため、死んだ人間だけが二〇〇体あまり会場内に残り、次の日の来るのをじっと待っている。

 そんな会場を一人で巡回する業務は、決して愉快なものではない。死んだ人たちと、なるべく目が合わないように気をつけながら、任務を遂行するだけである。連中は死体のくせに、どういうわけか眼だけが妙に生き生きとしているのだ。

 それにしても、今日はいつも以上に会場が広く感じられる。

 仕方がないので、またシエラのことを頭のてっぺんから足の爪先まで詳細に思い出しながら巡回して、気持ちを紛らすことにする。運が良ければ牛の時と同じように、またシエラが現れてくれるのではないかと一石二鳥を狙っているのは言うまでもなく、自分でも驚くほど安易な作戦だとは思うが、シエラと連絡が取れなくなっている今、彼女に逢うにはこれくらいしか方法がないのでやむを得ない。

 まずは髪の毛だ。アッシュグレーの髪は緩やかにウェーブしており、背中三分の一の地点まで達している、と始めてはみたものの、どうも集中できない。それというのも、目の前の死んだ人たちに、心の中を見透かされているような気がするからだ。

 内臓が丸見えになった死体。皮膚を全て剥がされて全身の筋肉が晒されている死体。逆に全身皮膚だけにされた死体。なぜか槍投げのフォームを取らされている死体。それぞれ奇抜な装いの死体が、思い思いのポーズを取りながら一様に私を見ている。

 こうやって無数の死体に囲まれてみると、人間は生きているのが当たり前、という二十七年間にわたって無防備に持ち運び続けてきた観念が液状化してくる。この場所では、死んでいる者が、生きている者を数的に圧倒しているのだ。生きている者の数が一(私のみ)であるのに対して、死んでいる者の数は二百を超えている。勝てるはずがない。

 ハイ、すみませんでした。私が悪うございました。人間は死んでいるのが当たり前ですよね、ハイハイ。生きている私が異常でございます。直ちに死にます、死ぬべきです、ハイ。だっておかしいですもんね。電池も入っていない、コンセントにもつながれていない、ゼンマイも巻かれていない人間が、ひとりでに動いて、しゃべったり、笑ったり、怒ったり、泣いたり、やきもちを焼いたり、誰も心を開いてくれないと言って絶望したり、心が通じたと言って喜んでみたり。人間なんて突き詰めればただの肉の塊。常識的に考えれば動くわけがない。あなた、肉屋のショーケースの中で、カレー用豚ブロック肉が、モソモソと動いているのを見たことがありますか? ないでしょ。ないですよね。それなのに、その蛋白質の塊が、生きて、意思を持って、動いているのがおかしい。

 そんな感覚に襲われる。

 そうか。 

 そういうことなのか。

 

 ―― 平気、平気。 

 生まれる前の状態に戻るのが少し早くなるだけですよ。

 元々何十億年もその状態で過ごしてきたわけですし。

 何十億年のことは気にしないで、

 たった三百日程度のことを気にするなんておかしいですよ。 

 

 要するにシエラは、この宇宙に於いては、生命のない物質の状態こそが基本形であり、「生きている」というのはかなり例外的な状態であると、そして、「死ぬ」というのは単に基本形に戻るに過ぎず、決して特殊なことではないと言いたかったのだ。「死んでいる」、つまり「生きていない」のは極めて自然なことであり、何一つ忌むべき理由はないと言いたかったのだ。そのことが今、夥しい数の死体に囲まれることによって、ようやく分かった。

 本当にシエラは、もう私と逢わないつもりなのか。

 私は、命を奪う価値すらない人間だった、ということなのだろうのか。

                               (次回につづく)